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- Inperishable Will【まえがき】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:35]
Inperishable Will【1:極炎の姫君・前】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:43]
Inperishable Will【1:極炎の姫君・後】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:47]
Re:Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・前】 - 御神楽 紫苑 [1/29(Tue) 1:53]
Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・後】 - 御神楽 紫苑 [1/29(Tue) 2:50]
Inperishable Will【3:夜は踊る】 - 御神楽 紫苑 [3/1(Sat) 19:55]



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Inperishable Will【まえがき】
御神楽 紫苑 [Mail]
1/23(Wed) 2:35

 はい。
 ってことでとうとうココにも載せちゃいます。
 完全一時創作、っていいのかしら。
 
 一応、tks内で中の人が動かしてるキャラ達を中心にした一時創作小説です。
 ジャンルとしてはSF分が入ったファンタジー。 それゆえに中2病的なものが苦手な人はリターン推奨。
 tksのメンバーは今のところアレスしか出てこないけれど、注文くれればそこここで出していきたいなとか思ってます。 ちょっと出るだけ、かもしれないけどね。
 
 さて、それじゃ。
 一度すべてが終わった世界の中で繰り広げられるSFファンタジー活劇。
 第一部は、19世紀末の日本と似ているようで違う国、応神皇国が舞台。 きらびやかな宮廷に立ち込める暗雲、その奥底にあるひとつの意志とは――
 楽しんで貰えれば僥倖だわ。


 ……さて、私も後戻りができなくなったな。
レスをつける


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Inperishable Will【1:極炎の姫君・前】
御神楽 紫苑 [Mail]
1/23(Wed) 2:43


 尽きる事なき大河にも例えられる、歴史という名の物語。
 それを紡いでゆくのは、時代に生きる人の意思に他ならない。


 ――『天魔戦争』。


 歴史には秩序と混沌との争いと記される、幾世紀にも渡って続いた戦。
 その終局は、世界を織り成す情報を自在に操り、変える事すらも可能な技術、『魔術』の暴走によってもたらされた。
 暴走する力は星を飲み込み、人類が築き上げてきた文明は、劫火の中に崩れ去った。
 それでも荒れ果てた地上に人々は生きていて、先人たちの残した技術の残滓に縋って命脈をつなぎ――

 そして、およそ三千年。 
 悲劇を繰り返さぬとの誓いの元、人々は『魔術』の力を再び振るって新たな文明を作り上げ、再び繁栄の時を迎えつつあった……。





 高天原は、大小99の島群からなる生活圏であり、九十九(つくも)島とも呼ばれる。
 かつては神が住まった土地と言われるそこは、現代においては世界でもっとも豊かな文化を持ち、繁栄を享受する地域のひとつだ。
 穏やかな気候風土に豊かな四季、変化に富んだ自然。
 そしてその中で、神の子孫と伝えられる天照家を中心に緩やかな共同体として始まった国家は、今となっては瑞穂・葦原・秋津・華音と呼ばれる四つの大きな島を中心に数千万人もの人々が住まう、世界でも五指に入る大国である。 国号は、『応神』。
 脈々と受け継がれてきた天照家の血統は『光皇』と号す国家の元首として、代々瑞穂島の中西部、永安と名づけられた京に君臨し、血筋を分けた分家や建国の功臣たちの子孫である貴族を従え、絶大なる権力を振るう。 民もまた繁栄の恩恵を十分に享受し、豊かな日々を送っている。 まさに、絶対君主の君臨する国家としては理想的といえた。 少なくとも――表面的には、そう見えた。

 しかし、零紀元2998年二月末――昨年から病気の床に臥せっていた光皇の容態がいよいよ悪化。
 新聞やラジオは扱いの大小こそあれ毎日のように帝(みかど)の体調を報じ、天照家が身近な存在である永安京の市民たちは、都の北、光宮の方角を見ては、帝の病状について噂しあった。  
 一方で、帝の容態についてより多くの情報を手にすることができる貴族達の間では、帝は既にして昏睡状態に陥り、回復はほぼ無いという統一見解が出来上がりつつあった。
 そして問題になったのは、帝の二人の息子たちは先年に急死して既に亡く、孫達はいずれも正式に太子として冊立されていないという事実である。
 ――誰が次の帝となり、誰がその後見となるのか?
 これこそが貴族達のもっぱらの関心事であり、既にして今上帝の長男・故篤良親王の遺児である七歳の長良親王を擁する九条家と、次男・故幸平親王の遺児である五歳の幸仁親王を擁する綾小路家との間には、不穏な空気が渦を巻き始めていた。
 その中にあって、当事者である両家以上にその行動に注意が払われたのが、皇家に連なる一族の中でも、こと最高の家格を有し、光皇に代わって政務を執りえる「摂政」に任ぜられる資格をもつ有栖川家と、御神楽家だった。
 有栖川家の歴史は比較的新しい。 零紀元二十世紀末、天下を二分する大乱が起こり、いっとき皇家の権威は地に堕ちた。 その際に諸国に割拠した領主達をことごとく討伐し、皇家の威光に再び従わせた有栖川高望親王を祖とする、代々軍部の重鎮を輩出してきた家系である。 高望親王以下代々の功績を称えて「泰華宮」の称号を有する名家だが、今代当主である影幸は「軍人は政に口を挟むべからず」と、今回の事態に関しては不干渉を決め込んでいた。
 そこで一層の注目を集めることになるのが御神楽家だった。 初代天照光皇の実弟である月読尊を祖とし、それにちなんで「月読宮」との称号を戴く御神楽家は、代々魔術師の家系として知られ、皇国魔導院の長官を最も多く輩出している。 また優秀な官吏も多く、皇国宰相にまで上り詰める者もあったこともあり、政治的な発言力は非常に大きいのだった。
 その噂の御神楽家は、都の北東、鬼門を守護する方角に大邸宅を構えている。 築何年が経つともしれない木造の蒼古たる大建築は、一説には、この地に都が定められた時から存在するといわれる。
 しかし、現在の御神楽家が置かれている状況は、邸宅の磐石な構えに反し、非常に微妙なものであった。
 「皇孫を擁する二家による板挟み」という状況の最中にあって、御神楽家の現当主は、まだ齢三十にも達しない、“ひよっこ”だったのである――。





 ほっそりとした狩衣姿の青年が、長い板張りの縁側をゆく。 すれ違う家人たちはみな彼に対して頭を下げ、彼はそれに柔らかな微笑を返す。
 庭木の手入れをしている使用人をねぎらい、やがて彼は障子を開けて、自室へと入っていった。
 純和風の書院造のなかに西洋風の調度が入り混じり、渾然一体となったそこの中央の文机に彼は向かい、家人が整理しておいてくれた自分宛の書簡や、決済しなければならない書類に目を通す。
 彼こそ今代の御神楽家当主、蘇芳だ。 御神楽家は魔術に関しては皇国で五指に入る家柄だが、この蘇芳に限っては、魔術の才に恵まれなかった。
 皇国の認定術者としての証である『魔導師』の称号こそ持ってはいるが、それは伝統ある魔術の名家の当主という立場についてきた、いわば棚から落ちてきたぼたもちのようなものだ――
 と、世人は噂をするし、また彼自身もそう思っている。
 実際、彼はこの称号にも、宮家を継ぐにあたって叙された三位という位にも、まったく有難味を感じてなどいなかったし、それを隠そうともしない。
 その姿勢が他の貴族達の反発を招こうと、世人にいかに噂されようと、彼は常に、柔和な微笑を浮かべて佇むだけだった。
 聞こえてくる鳥のさえずりや風のさざめきにいっとき耳を澄ましながら、蘇芳はゆっくりと熱い煎茶を口に含む。
 湯呑みを置き、紙束から一枚の書簡を抜き出し、最初の一行を読んで、彼は危うく口の中に僅かに残っていた煎茶を吹きかけた。
 むせそうになりながらも煎茶を飲み下すと、彼は時々笑いの発作に見舞われつつ、全文をなんとか読み終えた。
 そして彼は残りの書類に目を通すのもそこそこに席を立ち、意地の悪そうな笑みを浮かべながら書簡を手に持ち障子を開ける。 そして一歩を踏み出そうとして、あることに気がついた。
「ああ……そういえば、出かけていたのでした」
 数時間前に、目的の人物に仕える少女剣士が、主ともども外出する旨を伝えに来たのを思い出し、やれやれ、と彼は肩をすくめて再び文机に向かったのだった。

 ――蘇芳には、10歳ほど下の妹がいる。
 先天性のアルビノという、もって生まれた体質ゆえに病弱で、数年前までは家の外に出ることもなかった。
 ……そのように、世には知られている。 確かに彼女は、父であり、先代当主である御神楽秀明の許しが下りず、三年前までこの御神楽邸から一歩たりとも外に出ていない。
 しかしそれは、体が弱かったから――という理由では、ありえなかった。
 彼女は先天性の白子(アルビノ、色素欠損)であるにもかかわらず、特有の視覚障害や、紫外線に対する心配はまったく存在しなかった。
 全て、物心つく遥か前から、魔術を用いることでそれらの全てを補っていたのだ。
 そう、彼女は蘇芳とは対照的に、非凡な魔術の才をもって生まれてきた。 その力は特に炎を操ることに長け、また強力に過ぎて、無意識に周囲を傷つける程のものだった。
 その最初の犠牲者となったのは、他ならぬ産みの母親だった。 産声と共に、周囲に熱波と火の粉を撒き散らす赤子。
 秀明は自身も火傷を負いながら、震える手で娘を抱き上げ、そして、あるものを見たのだ。
 急に泣きやんだ娘の、血の色をした胡乱な目が急に焦点を結び――その中には超高密度の術式と魔力が渦巻いていた。
 この、天性の素質と、可能性と、そして危険性を孕んだ子が、どのような成長を遂げるのか――秀明は、それに興味を持った。 魅せられた、とも言っていい。
 それから、秀明は魔導院長官の職を辞し、御神楽邸にあって常に娘の力が暴走しないように目を光らせ、彼女が言葉を理解できるようになってからは、つきっきりで力を制御する術を教え込んだ。
 ……彼女は、この上なく良い生徒だった。 秀明の教える全ての事を、まるでスポンジのように彼女は吸収していった。
 彼女が十五歳になろうという頃には、知識と技術においては秀明に肩を並べ、力においては彼を凌駕する魔術師に成長していた。

 ――その父も、つい三年前にこの世を去った。 その日をもって、彼女は『魔導師』の称号と、自由を手に入れたのである。

 再び、紙をめくる音だけが響く室内。
「一目見て……ですか。 わからなくもないですが、見た目だけなら」
 呟くと蘇芳は、冷めかけた煎茶を一息に飲み干し、苦笑をもらすのだった。





 都から離れること、十数里。

 そこは、村から少し山を分け入ったところにある泉だった。
 清冽な水がこんこんと湧き出でるそこは、村人たちの喉を潤し、作物に恵みをもたらす、まさに命の泉。
 村人たちは感謝の念からここに小さな社を建て、きっと存在するに違いない、自分たちに恵みを与えてくれる泉の神を祭った。
 そんな、どこにだってありそうな、何の変哲も無い泉の傍の石に、今は齢十ほどの少年が腰掛けている。
 彼は何をするでもなく、所々苔むした石の上にも三年――いや、半刻ほどの間座って、ぼうっと目の前の景色を眺めていた。
 季節は初春、鳥たちが歌を詠い、木々の隙間からは柔らかな日差しが降り注ぐ。 泉は雪解けで水量を増し、涼やかな音を立てて村へと続く小川に水を注ぎ込む。
 その向こうでは朱が剥げかけて煤けてしまった鳥居と、柱が少し歪んでいる社が、木立の間から姿を見せている。
 彼がこんな場所にいる意味は、たいした事ではない。
 きっかけは、ほんの些細なこと。 いつもの調子で始まった口喧嘩は怒鳴り合いになり、つい勢いで家を飛び出した。 よくある事だ。
 その後、しばらく村の中をぶらついたが、どうにも居心地が悪い。 そこで、ほとぼりが冷めるまでこの場所に居ようと思ったのだ。
 一緒に遊ぶ仲間たちには馬鹿にされるので言わないが、彼はこの静謐な神域で、いつも変わらない水音と、季節ごとに変化する種々の 音を聴き、そして風景を眺めるのが好きだった。
 そろそろ、戻っても大丈夫だろうか。
 もしかしたら、自分が戻らない事で不安になった両親が探しに出る頃かもしれない。 なんにせよ、一発殴られて、謝って、頭を撫でられて、それで終わりだ。
 そんな事を考えながら、彼は腰を上げた。
 ――かさり、と言う音。
 自分が立てたものではない。 ――ふと、月に一度やってくる行商人が、最近は動物が減った代わりに、物の怪が昼間から出るようになった、と言っていたのを思い出した。
 まさかこの場所で、と思ったが、何とも言えぬ寒気が背中を駆け上がってゆくのがはっきりとわかって、彼は急にこの静寂が恐ろしくなった。
 また――かさり、という音。
 ぞくり、と肩が震えた。 冷たい汗が全身から噴き出し、夏の木漏れ日が降り注ぐ中、彼の足はまるで真冬に放り出されたかのようにがくがくと震える。
 彼はこの場から離れようと懸命にそれを動かすが、もつれた足が木の根に絡まって彼は前につんのめり、意に反して彼の身体は宙に投げ出された。
 一瞬の浮遊感、そして足首に何かの感触。
 覚悟して目を瞑っていた落下と激突はいつまでも起こらず、代わりにさらなる浮遊感を覚えた彼は目を開き、恐れと戸惑いが入り混じった表情をしてあたりを見回す。
 そして認識した、自分は今宙に浮いていると。
「ぇ……」
 漏れる声には狼狽が色濃かったが、それでも足首に巻き付いている、固く、節くれだった長いものが自分を宙にぶら下げているという事くらいは理解ができた。 それが何なのかは理解の埒外だったが。
 ――風もないのに、木々の葉がざあと揺れる。
「うわあぁぁああっ!」
 それが何か、とても恐ろしいことのように感じて、彼は蒼白な顔で悲鳴をあげた。
 懸命に空中でもがいて、足に絡みついたものからなんとか逃れようとするが、それは非常に強靭で、千切れも緩みもせず、かえって締め付ける力が強まるばかり。
「ひっ!」
 状況は少しも好転しない。 木々の隙間から長く細い何かが突然伸び、宙吊りの彼の手を絡め取ったのだ。 今度は彼にも、それが何かたやすく分かった。
 枝。 何本もの細い枝が絡み合って、まるで縄か、腕のようになっているのだった。
 辺りを見回せば、同じような物が何本と彼に向かって伸びてきていた。 おぞましい光景に、彼は意識を手放しそうになるが、本能的に意識される死への恐怖と、抵抗の意思が彼の気を保たせていた。
 ……それは典型的な樹妖だった。 年経た老木が瘴気に中てられて原始的な意思を持った妖物で、夜の間に動き回り、昼には周囲に広く放射状の根を張って獲物がかかるのを待つ。
 獲物は周囲の木々を操って作った腕で本体の場所まで運び、そこで精気を吸うのである。
 少年の全身を絡めとろうと迫ってくる、茶色く節くれ立った硬い腕。
 彼は魔手から逃れようと、目から涙を零して泣きじゃくりながら、必死に拘束されていない方の手足をばたつかせるが、無為なことだった。
 その手足から、次第に力が抜けてゆく。 諦念に支配されつつある意識で、彼は全身に絡みついた腕が自分を何処かへ運んで行くのを感じていた――。





 ……樹妖は、獲物を捕らえている間はそちらに注意が向き、周囲に対して無警戒になる。
 ゆえに、その樹妖は知らなかった。 樹妖が少年を捕らえる瞬間を、たまたま目にした人間が、二人存在したことを。 まして、その二人が自分を殺すに足る力をもつ存在であることなど。
 知る由もなかったのだ。
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Inperishable Will【1:極炎の姫君・後】
御神楽 紫苑 [Mail]
1/23(Wed) 2:47

「いま助ける」
 遠くから風が運んできた声で、少年ははたと目を醒ました。 見上げれば木漏れ日が降り注ぐ春の森の情景が広がり、その中でこの長閑な情景にはおよそ似つかわしくない褐色の蝕腕が不気味にうごめいている。
 四本あるそれらの先端は少年の四肢を固く捕えて離さない。
 今まさに、自分は化け物の餌になりかけているのだ、と、少年はすぐ解した。
 しかし、不思議と恐怖はない。 目覚める瞬間に聞こえた声が、奇妙な安心感を彼に与えているのだった。 誰の声かも、そのことが本当かもわからないというのに。

 ――音が、した。
 下草を掻き分ける誰かの足音と、金属が擦れる耳障りな音と、そして、なにかが空を斬る音。
 ――同時に、少年は見た。
 草むらの中から飛び出してきた誰かが、跳躍の頂点で陽光に煌く刀を抜き放ち、大上段に構えたそれを一直線に振り下ろす姿を。
ぱき、と乾いた音を立て、少年を拘束していたものが砕けた。
「わっ!?」
 受身を取り損ね、思い切り尻餅をついてしまう。 痛む腰をさすっていると、「大丈夫か」という言葉とともに、すっと手が差し伸べられた。
 はっとして見上げれば、視線の先には、まだあどけなさを残す、美しい少女の顔がある。
 少年よりも幾分か年上だろうか。 艶やかな黒髪を後頭部でまとめた、いわゆるポニー・テールに、端整な目鼻立ち。 見下ろす藤色の瞳の視線と自分のそれがかちあって、思わず少年は赤面した。
「立てるか」
「こ、こんなん平気だっ」
 続いた問いに、思わず彼は少女の手を振り払って飛び起きてしまう。
 一瞬、悪い事をしたかな、とも思ったが、当の少女はそれを気にした風もなく、「そうか、なら良かった」とだけ言って、旅人風の装束に包まれた身を翻した。
 そこに聞こえた――かさり、という音。 少年は反射的に身をこわばらせたが、少女は恐れはしなかった。 代わりに利き手に持った白刃を油断無く構え、背後の少年に声をかける。
「動けるか」
「ちょっと……無理、っぽい」
 足がすくんで動けない。 少年はよろよろと地面に膝をついた。 全てをこの見知らぬ少女に任せるしかない、情けない自分を歯痒く思いながら。
「なら、そこから動くな」
 木々が、不気味にざわめく。 森全体がうごめいているような錯覚の中、少女の周辺の空間だけは凪ぐような静けさを保っている。
少女が、太刀を正眼に構えなおした。 ゆっくりと息を吸い、眼を閉じ、感覚を研ぎ澄まして、周囲を探る。
「破ッ!」
 気合と共に、銀光が三度立て続けに奔った。 空を断つ音に続いて、木を砕く乾いた音が連続して響く。
 さらに、後方から少年を狙っていた蝕腕を返す一刀で叩き斬り、彼女はふと表情を崩した。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな……私は、っち!」
 苦笑じみたその顔は、こんな時に何を悠長な、という念からのものだろうか。
 名乗りかけたところで殺気に気が付いた彼女は舌打ちし、前方から襲い掛かってくる、刃と化した木の葉の群れを、大振りの生み出す剣圧で一息に薙ぎ払った。
「輝夜。 冴月輝夜だ」
 少年の目の前の肩越しに投げかけられた声は、凛として鋭かった。 覗く頬には一筋の傷が走り、赤いものがつつと垂れ始めている。
「俺は……」
 異性に名を問われて名乗る気恥ずかしさ、窮地にあって何もできない歯痒さで頭がいっぱいになりながらも、少年は声をひねり出そうとした、が――
「下がれッ!」
 警告の声に、彼は未だ力が残っている腕をバネにして、後方に飛び退いた。 それに輝夜が続き、直後、鞭のようにしなる枝が振り下ろされ、二人が半秒前まで居た場所を打ち据える。
「まだ奴の手は尽きないか……!」
 吐き捨てるような声には、彼女の苛立ちと焦りがありありと伺える。
 続けてもう一度振り下ろされた枝を、白刃が断ち斬り、さらに輝夜は追撃とばかりに、未だ姿を見せない妖樹の本体が居るであろう森の奥に向けて、剣気の刃を放つ。
「やはりな」
 枝葉に阻まれ、徐々に勢いを失う刃を見て、呟く。 失敗を嘆くというより確認するような、それは落ち着いた声だった。
「まだ、速さが足りんな」
 敵の攻撃はことごとく防ぎ、しかし敵に決定打は与えられない状況。
 呟きの意味は少年には理解できなかったが、もっと深刻な、彼女に疲労が蓄積してきているということは十二分にわかる。
「だ、大丈夫なのかよ」
「正直に言うと、このままでは厳しい」
 返ってきた答えは予想通りのもので、少年が感じたのは、落胆というより納得だった。
「逃れるには、奴の手の届かないところまで一気に走るしかない」
「でも、それじゃあ」
「案じるな。 成算はある……奴の本体を一気に倒してしまえる方法の、だ。 だから今は、とりあえず立って走れ!」
 言って、いつのまにか少年の後ろに回っていた輝夜は少年の背中を軽く蹴りつけた。
 「わわっ」と声を上げて転がるように走り出す少年の後を、彼女は攻撃の来る方向に正対したまま、後ろに飛び退きながら追う。
「後は……」
 呟いて、彼女は一瞬だけ、森の入り口の方向に視線を向けた。





「やっぱり、輝夜一人じゃ手に負えないか……」
 苦笑気味の声。 泉の水を弄んでいた白い手が引き抜かれ、そのまま髪を掻き揚げる。
「そうね、後は任されてあげようじゃあないの」
 不敵に微笑んで、彼女は腰掛けていた泉際の石から優美な動作で立ち上がった。
 その視線の先には、此方向けて必死に走り続ける少年の姿――。

「後少し、あと少し、あとすこし、あとす、すこし……!!」
 徐々に言葉の体をなさなくなってくる声。
 うわごとのように呟きながら、少年はひたすら光の見える方に向かって走り続ける。
「……!」
 森を、抜けた。
 一気に視界が開けたそこは、清らかな水がこんこんと湧き出す泉、古びた社、煤けた鳥居――最初に少年が居た場所だ。
「戻って、きた……」
 しかし、ここすらも安全ではない。 呼吸を整えてまた走り出そうとして、ふと彼は気が付いた。
 泉のほとりに佇む、長身の女性の存在に。
「ぁ」
 思わず、ぽかんと口を開けて固まってしまう。
 少年の眼底に刻み付けられた像、女性の容姿は、そうさせるまでに印象的だった。
 その女性が、少年の方を向く。
 腰まで届く、白に近い銀色をした繊細な髪。 淡雪のように白く美しい肌。
 鋭角的な顎の線の上には紅色の唇が半月型の笑みの形で存在し、すっと伸びた鼻梁のやや上方の左右には、煌びやかな、鳩血色の紅玉をはめ込んだかのような瞳が光っている。
 白と赤の道士服の、大きく広がった袖をばさりと打ち鳴らして、女性は一歩を踏み出し、そして口を開いた。
「輝夜ッ!」
「紫苑様ぁッ!」
 鋭く飛んだ呼び声に、答えるもう一つの声。
「後はお任せ致しますッ!」
 ざっ、と木立の中から飛び出してきたのは輝夜。 その背を追うように、刃と化した葉が飛んでくる。
「ふん」
 女性は嘲るように鼻で笑うと、輝夜が自分の傍らに音も無く着地するのを見届けてから、右腕を高く掲げ、そして指を一つ、ぱちん、と鳴らした。
「……!」
 少年は瞠目した。
 ただそれだけの動作で、女性の眼前に赤々と燃える炎が渦巻き、飛来する一群の葉を包み込んだのだ。

 ――魔術。
 
 意思の力をもって世界に干渉し、思うがままに現象を引き起こす、この世界の根幹を成す技術。 その、最も高度で、かつ攻撃的な発動形態のひとつを、少年は今まさに目にしたのだ。
「すげえ……」
 呆然とする少年を他所に、紫苑と呼ばれた女性は、その指先に小さな炎を纏わせて、ゆっくりと下ろしてゆく。
「まだ安心するのは早いわ、そこの君。 本体が残ってる」
 視線を森の奥に固定したまま、一言。
「君を襲ったのは、樹妖よ。 聞いた事くらいあるんじゃない? 夜な夜な動いて獲物の生気を吸う樹の物の怪の話」
「で、でも、ここは」
 この泉の神様を祀った――
「神域だ、って? そうね、でも魔術的な裏付けが一切無い。 そんな、人がただ引いただけの境界線、先方にしてみれば知ったことじゃないのよ」
 素っ気無く言う紫苑は、少年の頭を「馬鹿ね」と言わんばかりにぽん、とはたき、それから豊かな胸の下で腕を組み、傲然と森の奥から迫り来る『それ』を見据えた。
 地面が揺れ動き、何か大きなものが動く気配が伝わってくる――森が今までになく大きな音を立てて鳴動した。
「来るわ」
 がさがさという音に加えての地響きとともに、木々を掻き分け現れたのは、血のように紅い蕾をそこかしこに膨らませた――
「桜?」
 裸の枝に、もう数週間もすれば咲き始めるであろう蕾をつけた、桜の老木だった。 根を足のごとく動かして歩いてきたのか、背後の地面にはそこかしこに穴があいている。
「桜の下には死体が埋まっている。 その血肉を糧として、桜花は紅く美しく色付く……つまらない怪談話ね」
 敵を前にして、彼女の態度は余裕に満ちている。 妖桜は目の前の獲物を捕えようとその枝を振り上げたが、それでも、紫苑は傲然とそこに立っていて――
「消えなさい」
 ――ぱちん、と、指が鳴った。
「!」
「下を向いて目を瞑れッ!」
 輝夜の鋭い声と時を同じくして、この泉の周囲の空間全体に等しく、何かが破けるような音が響き渡った。
 空間が引き裂かれる音。 強引に作られた裂け目に紫苑の意思が魔力という媒体を通して介入し、その場所の情報を書き換えてゆく。 それは、地面をちろちろと舐めるように這う、小さな炎となって現れた。
 妖樹は周囲の空気が自分への敵意と殺意に塗り潰されたのを感じ取り、根を蠢かせてこの場から逃れようと試みたが、しかしその時、既に結界は完成していた。
 地を這う炎が描き出したのは、血の色の線が幾重にも重なって複雑な図形を成した魔法陣。
 術は成った。 魔法陣の結界は、妖樹を捕えて離す事はない。
「そうね、せめて……」
 魔法陣が紅の輝きを発し始め、高まってゆく熱は暴風を生み出し、下草や枯れ枝を巻き上げる。 その中で紫苑は利き手の左を天に向けて掲げ、口の端に不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「光の華にしてあげるわッ!」
 そして、世界が変容する。 発せられた言霊は式を揺り動かし、世界を侵し塗り潰す。
 赤々と輝く魔法陣は黄を経て白へとその色彩を変え、臨界にまで高まった魔力はただ一点を指向して、今まさに解き放たれた。
 極限まで高められた圧力が空気を一時に押し退ける爆音と共に迸ったそれは、炎と形容するには凄まじ過ぎた。
 仮にこの場に眼を開けてまざまざとこの光景を見つめる者があったとすれば、この瞬間、その者は一生の間光を失う事になったであろう。 そう、それは光り輝く白い闇、とでも呼ぶべきもの。
 光には、熱が続く。 魔法陣の裡という限定空間にあって、天を目掛けて昇り昇る焔の龍。
 始原の炎がこの場に現出したかのような灼熱が、哀れな妖樹を瞬く間に包み込み焼き尽くし、そして彼は断末魔はおろか身じろぎ一つする間も与えられず、その存在を終えることになった。
「ふふ……あっはははははは!」
 辺りには、ただ、魔術師の笑い声だけが響いている。
 森に終末の光が満ちてゆく中で、その純白の肌と白銀の髪、そして紅玉の瞳はそれにすら勝って輝き、彼女という存在を圧倒的な威力をもって周囲へと刻み付けていた。
 見るものに畏怖を抱かせずには居られぬ、自然という名工の手になる硝子細工が如き外見の下に、灼熱の獄炎渦巻く姫君。
 何者よりも美しく。
 何者よりも気高く。
 何者よりも儚げで。
 そして、何者よりも苛烈。
 そう、彼女こそが、応神皇国が月読宮家の長女、従五位『魔導師』御神楽紫苑だった。





「本当に、外見だけならば解るのですが――」
 再び、都の東北、御神楽邸。
 私室にて蘇芳は舶来のランプの光の下、皇国の政治に多大な貢献をしているさる大貴族から送られてきた一通の書状への返事を書き綴りながら、苦笑を禁じえないでいる。
「真物を見たら、果たしてどう思うやら?」
 蘇芳にしてみても、この書状の内容は、「何時かきっと来るだろう」と覚悟しつつも、「在り得ない」と否定する自分の方が比重が大きかった、そんなものだった。
 何行にも渡って美辞麗句が書き連ねられた書状の内容をごく簡潔に要約すれば、こうだ――
『殿下の妹姫を、ぜひともわが妻として迎えたい。 ついては、一週間後に当家の山荘にて夕食会を催すので、是非とも姫君御本人にご足労いただき、まずは私めに会っていただきたい』
 勿論不安はある。 相手の貴族の家は、現在巻き起こっている皇位継承をめぐる争いに深く関わる一族だ。
 その家と御神楽家が関係をもつということは、御神楽家がその陣営につくことを正式に表明することに他ならない。
 さらにその夕食会とやらで相手がどのような態度に出てくるか、それに対する妹の反応、「相手が」無事で居られるかどうか、心配事は山積している。
 ――妹自身の安全は心配のしようがなかった。 彼女が窮地に陥る事などは、蘇芳の想像の埒外にある。
 しかし、蘇芳のなかには、これは好機だと叫び上げる自分、面白くなってきたと喜びを隠せない自分が確かに存在していた。
 この申し出に端を発し、皇家を取り巻く政治情勢は大きく動く事に間違いはない。 その中で自分が如何に立ち回り、両派に飲み込まれる事なく、御神楽家としての地歩を固め、事と次第によっては――
「……殴られるのは覚悟しないといけませんかね」
 家人のなかに数人、あの繊手に頬を張られたいやら抓られたいやら、あの白いお御足に踏まれたいやら蹴られたいやらと日がな口にしている変わった趣味を持つ人間が居る事を蘇芳は知っていた。
 彼ら彼女らに、今の自分の立場を代わって貰いたい。
 そんなことすら思いながら、蘇芳はこの申し出に対して、次のような内容を、勿論あらん限りの語彙を駆使して数枚の用紙を費やすほどに引き伸ばし、返書としてしたためたのだった。

『了承』
レスをつける


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Re:Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・前】
御神楽 紫苑 [Mail]
1/29(Tue) 1:53



 私にとって、世界はこの白い土塀に囲まれた家の中だけだった。
 書物の中に描かれたあの広い世界に、どれほど焦がれたことだろう。 力ゆえに自由に出歩けぬこの身を、どれほど呪ったことだろう――。

 ある日、私は禁を破り、屋敷の外へと身を躍らせた。
 生まれて初めてこの眼で見、この身体で感じた外の世界。
 そこは、想像していたよりもずっと汚くて、ごちゃごちゃしていて、猥雑で、不揃いで。

 それでも。
 それでも、私は。

 ――もっと、もっと、たくさんのものを見てみたい。

 不思議と、そう思ったのだった。





 ――都の最北。
 圧倒するような威容をもって、かつての都の外界、現在の新市街を睨めつける羅生門から伸び、鳳凰を模った一対の彫像が護り、朱塗りの屋根が優美な稜線を形作る朱雀門に至る朱雀大路、その終着点。
 そこは、この応神皇国の象徴にして、天照大御神が子孫、至尊の存在たる光皇がおわす神域。
 陽光に輝き、天を衝くようにそびえる尖塔を中央に抱くのは、グロリアス・パレスや光宮という名で呼ばれる、白と紅で彩られた宮殿である。
 最上階に光皇の玉座を戴くこの全百五十階層の白亜の尖塔と周囲の宮殿は、一説には皇国成立の以前よりこの場に在ったとも言われる謎が多い建造物。
 その列柱とアーチを多用した、この国の他のどの建物とも違う特異な建築様式は、海を隔てた天空都市ルーンティアスの、これも有史以前から存在すると伝えられる白き市街に類似のものがみられ、同地にそびえ立つビフレストと呼ばれる神が住まった塔と同様の構造をなしていると言う者もある。

 地上からおよそ六百米もの高みに位置する至尊の座におわすべき帝は、今や病の床。
 その遥か下方にある豪奢な意匠が施された幾つもの小室のひとつでは、次にその一国の頂点をなす場所に座りたもう事になるのは誰か――
 さらには、外戚として大権を振るう者が誰になるか――それらを決める為の会合がもたれている。
 九条、綾小路、二条、岩倉といった大貴族達の欲望が渦巻く論議は未だ平行線をなぞるが如くで、このままでは天地が終焉を迎えても決着を迎えることはあるまい、とすら言われている。
 そして、その地に近い付近。 帝が住まう塔上層部を守護するように、皇国になみいる魔導師達の中でも頂点を極めた者達が集う皇国魔導院が在る。
 ここは皇国政治のなかでも魔術に関わる全てを統括する行政機構であると共に、“禁軍”や“四神騎士団”と呼ばれる、皇国最強にして最高のみならず、世界にも冠たる戦闘集団の本営だ。
 皇家に直属する彼らは、光皇の命令一下、数多の朝敵を歴史の闇の彼方へと葬り去ってきた。 その歴史は皇国の歴史の暗部を象徴していると言って相違なく、存在すらひた隠しにされてきた。
 しかし2900年代半ば過ぎに今上帝が即位してのち、改革と人員刷新が進められ、魔導帝国としての皇国を象徴する皇家の親衛騎士団のような役割を担うようになった。
 とはいえ、それ以前の暗殺部隊的な性格をもつ一隊も今に残り、その牙を研いで出番を待ちかねているとまことしやかに囁かれている。
 ――偽り、暗部、秘部のない王家など存在しない、と歴史家は言う。 光の神とも言われる始祖魔術師・天照の子孫として、光皇と号するこの一族も、また例外ではない。
 光あるところに闇はあり、この光宮にも歴史の闇と現在の闇が等しくわだかまっているのだ。
 そして、その一部をなす俗悪な者どもの会合の様子は、あからさまに険悪なものとなりつつあるようだった――蘇芳にいわく。
 今のところ、紫苑はそういったものどもとは無縁のところに存在している。
 その事実に心底感謝しながら、彼女は午後の人もまばらな光宮の中庭から、蘇芳が居る塔の五十五階付近に視線を向けていた視線を戻し、踵を返して歩き出した。
 彼女は塔内、十二階から二十階にかけて存在し、世界最大級の規模を誇る皇立図書館に資料を返却したばかりだった。
 道すがら承明門、建礼門といった門をくぐり、応神古来の建築様式による官庁街を、皇国議会が開かれる厳かな朝堂院を横目に十分ほどかけて通り、眼前に優美な姿を見せる巨大な朱雀門の下を抜ける。
 そこからは、枝垂れ柳の並木道が車道と歩道を隔てる小さな堀に沿って続き、視界の両端に大貴族の邸宅が立ち並ぶ、永安京旧市街の風景が広がっている。
 御神楽邸はこの朱雀門前の交差点、朱雀大路と二条大路が交叉する地点で東に進路をとり、大内裏の城郭に沿って二条大路を進んだ先に見えてくるが、今の彼女が向かう先はそこではなかった。
 目的地は、都のなかでも比較的身分の低い役人達がかつて住んでいた南部地域の東側、通称『ひねもす街区』。
 現在は様々な出身、職業、身分の者達が住み、古いものと新しいもの、この国のものと外国のものが渾然一体となった、独特の空気を作り出している場所だ。
 法令によって定められた例外的な措置によって、ここは都のなかでは土地と税金が最も安い。
 さらに旧市街の中では例外的に古くからの坊条制も撤廃されているため、およそ五百米四方ほどの土地に大小の住居と商店が林立している。
 さらにそれだけでは飽き足らず鋼材と合成材を駆使して地面の上に更に地面を作り、その上に更に新たな建物を建ててゆく始末。
 紫苑が目指す場所は、そんな中でももっとも小路が入り組んだ複雑な一帯だ。
 増築が繰り返された建物や上層の床面が日光をさえぎって昼なお暗いなかに、魔術で作り出された淡い光を放つ色とりどりの照明があちこちを照らし幻想的な様相を醸し出す、そんな場所。
 どういうわけか、この場所は昔、空を人工の地面が覆い隠す前から魔術に関する書籍や物品を商う者達が店を構える事が多かった。
 それゆえに都に住む魔術師達のほとんど、それどころか皇国中から魔術師達がここに良質の材料や高精度の実験器具を買い求めに集ってくる。
 この『ひねもす街区』が一大商業地区として成立し、この場所から空が無くなった後に『篝火横丁』と名がつき、都の中でもちょっとした観光地にすらなった。
 交差点を渡り、去年までは乗合馬車の待合所だった場所に立って、つい数年前に実用化されたばかりの、最新型の魔力駆動機関を使ったバスを待つ。
 皇国は、古代文明の遺産を解析・復元して現代の生活に生かしているエル・ネルフェリアや、魔術を使えない者達が集ってまったく魔術に頼らぬ道を模索したシュティーアといった西の大国とはまた違った、術式を物体に書きつけ、それに魔力を通すだけで誰でも効果を得る事ができる「符術」の技術を基礎とした技術体系を作り上げているのだ。
 ……やがて、弾力のある樹脂の車輪と地面とが擦れあう音を立てて、古めかしい意匠を凝らしたバスが現れた。
 応神は金属加工系の技術にはあまり強くない。
 エル・ネルフェリア製の、精巧で緻密な機構と装飾が凝らされた「作品」と称すべきものや、その更に東方に広がるウルズ大陸の雄・シュティーア製の、無骨だがそれに見合う力強さを備えたものと比べて、優美さも力強さも足りない――それが何時だったか、新しく竣工した海軍の旗艦≪武御名方≫を見に行ったときの紫苑の評だった。
 しかし、こういった絶対の強度を必要としない場所では、古来より培われてきた木と草と紙と布とを信じられないほど精巧に組み上げた、雅な美しさに溢れたものを作り出す。
 そう述べると大げさかもしれないが、少なくとも、この往古から存在した様式に則ったバスは、同じ用途のものでも鋼鉄の板金で作られたそれよりは、この古都の風景には似つかわしいものだった。
 料金を支払って前の扉からバスに乗り込めば、車内の床は板張りで、日差しを遮るイグサの簾の向こう側には硝子の窓がある。
 昼間ゆえに車内は空いていて、木製の支柱や、梁から下に伸びる吊革に掴まっている者は一人もいなかった。
 ゆったりと、「優先席」と書かれた三人がけの柔らかな座席に腰を下ろし――優先すべき人間がいないのだから、これくらいは許される、と紫苑は思っている――間もなくして、バスは走り出した。
 窓からは、遠くに小山のような『ひねもす街区』の姿が見える。
 地上の上に二層の人工の地面を持ち全体として台形をなす、巨大な多層型ショッピング・モールとでも呼ぶべきそこの最下層が、目指す『篝火横丁』だ。
 せいぜいが時速2〜30キロ米程度のゆっくりした速度。 魔力駆動の動力は静かで、排気もない。
 運転手が僅かな集中によって生み出した魔力が、彼ないしは彼女がつけている頭環から伸びる導線を経由し、車体底部にある薄い金属板を束ねたものにびっしりと刻み付けた術式を起動させて、車輪や自動開閉する扉を駆動させる為に要するエネルギーを捻出しているのだ。
 運転手にある程度の魔術の才が求められる――とはいえ、魔力放出など初歩の初歩であり、その程度の才を有さないものなど百万人に一人もいない。
 しかし、普通の人間一人のもつ魔力はたかが知れており、何十人もの乗客を乗せて運ぶこのバスのようなものを動かすには、『晶石』と呼ばれる、魔力を増幅する作用のある特殊な鉱石の助けが必要になる。
 これは零紀元暦二千二百年代、今から約七百年前に存在が知られ、二千八百年代、すなわち前世紀に精製・濃縮技術が確立した(皇国科学史上、最大の偉業といわれる)ものである。
 精製した晶石を術式回路に組み込めば、注ぎ込まれた魔力を貯蔵・増幅し、結晶の純度と大きさにもよるが、数倍から数百倍のエネルギーを引き出す事ができる。
 この力によって皇国は石炭や蒸気の力に拠らない産業革命を達成し、世界の先進工業国への参入を果たしたのである。
 しばらく経って――その間に、乗客は劇的に増えてゆき、紫苑は目の前の御老人に席を丁重に譲ったのだった――バスは朱雀大路を離れ、『ひねもす街区』に隣接する八条大路に入った。
 やがて、『篝火横丁入口』の停留所が近づいてきた事を告げるアナウンスが聞こえ、紫苑は下車のボタンを押した。
 ややあって若干の身体が前に倒れるような感覚と共にバスは停止し、人の波に押されるようにして紫苑もステップを下りるが、そのなかで彼女は動きにくい和装を選択したことを心底から後悔していたのだった。
 いつだってこの場所は、人で溢れかえっているのだから。





 篝火横丁は今日も人でごったがえし、薄暗い低空では、名の由来となった色とりどりの篝火が、柔らかな光で路地を照らしている。
 決して広くはない道をさらに数々の露店が狭め、様々な種類の効能を持つ香や没薬の香りが一帯に漂う。
 その中を、紅色に白で蝶の柄を染め抜いた小袖に山吹色の帯を締め、白銀の髪を珊瑚のかんざしで結い上げたといういでたちの紫苑が、宮家の娘らしからぬ足取りで掻き分けるように進んでゆく。
 そんな姿は人ごみの中にあっても否応なく目立ち、そこここから呼び込みの声が飛び、客引きの手が伸びてくるが――その中には、彼女が御神楽家の姫君と知っていて、高値で物を売りつけようとする命知らずも多数含まれている――今日の紫苑はそれらの全てに耳のひとつも貸さない。
 普段はそういう手合いに付き合って緊張感溢れる価格交渉を楽しんだり、露店を覗いて、安くかつ美しいアクセサリや、掘り出し物の魔導具などを探したりもする彼女だが、今日の目的は別のところにあったのだ。
 数軒の古書店を回り、とうとう五軒目の「古林」で目的の稀購(きこう)書を発見した紫苑は、あらん限りの交渉術を駆使して値切りに値切り倒したそれを厳重に梱包し、衝撃吸収符と乾湿調整符をその場で何枚か書き付けて梱包のボール紙に貼り付け、携えていた鞄の中にそれを丁重に押し込んだ。
「ありがとう、また来るわ」
「ま、又のごひいきを……」
 輝くような笑顔で手をひらひらとさせる紫苑とは裏腹に、店主が紫苑を送り出す声は引き攣っていた。
 上機嫌の彼女はすぐ傍の屋台で真っ赤に熟した林檎をひとつ買って、満足気な顔で、小気味良い音を立ててかじりつく。 次なる目的地は、横丁の最奥部に近い、人もまばらな場所にある薬店「猫目堂」。
 そのあばら家のような店を目指して、林檎をかじりながら歩いていると、ふと、ある店の軒下にしゃがみ込んでいる、フードを目深に被り、身体に対して大きすぎる外套をまとった子供の姿が目についた。
 篝火横丁に親子連れは珍しいものではなく、また迷子もそうである。 親なり兄なり姉なり、誰かしら保護者が探しているだろうが、何故か紫苑はその子供に妙な興味とシンパシィを感じたのだった。
「どうしたの?」
 食べかけの林檎を手に持ったまま、紫苑はしゃがみ込んでその子供に問いかけた。
 目線の高さを合わせることによって見えたフードの奥にあったのは、燃えるが如き紅い髪と、同じ色の瞳を持った、10歳ほどの可愛らしい少女の顔。
 紫苑が林檎を持った手を差し出すと、少女は一瞬ぴくりと震えたが、おずおずとそれを手にとって、両手で包み込むようにして口の前に運んだ。
「食べかけで悪いけど」
「……うん」
 しゃりしゃり、と音を立てて食べ始める少女の横に、紫苑も座りこむ。 着物が汚れるだろうが、あまり気にはならなかった。
「迷子になっちゃったのかしら?」
 こくり、と頷く少女。 迷子になった場合、うかつに動き回ると余計に探している相手と距離が離れてしまうことがままあるが、知らない場所で一人待っている、というのも心細いものだ。
「ねえ、どこから来たの?」
 そう話を向けてみる。 紫苑はこの少女の保護者が現れるまで、傍についていてやる気でいた。
 応神では珍しい色の髪を持った外国人と思しき少女を、彼女にとって未知の雑踏の中に置き去りにしてしまうほど、彼女は薄情ではないつもりだった。
「わからない」
「わからない、って?」
「どこでうまれたか、おぼえてないの」
 マズいところに踏み込んだか、と紫苑は、「じゃ、どうやって来たの?」と質問を変える。
「えーと……南」
「っていうと、やっぱり船か。 アグ・ヤンとか、ヴェダとかには船は泊まった?」
「うん。 あと、カルコサにもいった。 お兄ちゃんといっしょに船から下りて、お買い物したよ」
「面白そう……羨ましいわぁ」
 上げられた都市の名は、南方スクルズ大陸から、都の南に位置する応神本土・西の玄関口である和泉港に至る航路上に点在する寄港地の名である。
 いずれも劣らぬスパイスや香料、貴重な果実や鉱物資源などを産する豊かな熱帯の港湾都市で、鬱蒼とした密林の奥に点在する遺跡を探索しに向かう冒険者や考古学者達でにぎわう地だ。
「私、まだこの国から出たことがないの……あら?」
 紫苑の目は、こちらに向けて歩いてくる、革鎧の上に砂色の外套を纏い、長身痩躯に不釣合いな大剣を背負った、鷹のような目をした赤毛の若者を捉えていた。
「あの人、お兄ちゃんじゃない?」
 そう言いながら若者を指差してやると、少女の目線が彼女の指伝いに動いてゆき、歩んでくる姿に行き着いた瞬間、その表情がぱあっと明るくなる。
 「お兄ちゃん!」と声を上げながら駆け寄り、その外套に包まれた姿に飛びつくのを紫苑は優しげな面持ちで見届けると、彼女もまた立ち上がり、二人に歩み寄った。
「妹が世話になったようだ。 すまない」
 抱きつく少女の頭を不器用な手つきで撫でてやりながら、若者は礼を述べた。
「世話なんて程の事もしてないわ。 ちょっと話をしてただけだし……そんなお礼を言われるほどでも」
 彼女にしては珍しく、歯切れの悪い返答。 それも無理のないことで、紫苑は少女の兄だという若者の顔に、奇妙なほどの既視感を覚えていたのだった。
 ――むろん、その頬が若干紅潮し、照れ、という感情を表現している事も付け加えなければなるまい。
「……俺の顔がどうかしたか?」
 何か頭に引っかかるような気味の悪い感覚を振り払うよう努めていると、若者の方が怪訝な顔をして問うてきた。
「ああ、なんでもないわ……」
 そう返してから、今度は後悔した。 どこかで見たような顔なのは確かで、その事を口に出していれば、この奇妙な感覚の原因を探るとっかかりの一つもできるのに、と。
「ところで、これから何処に行くの? 都には不慣れみたいだし、私の用事が終わったあとでよければ、案内してあげましょうか」
 気を取り直して、紫苑は尋ねてみた。 既視感の正体を確かめたかったし、何より、この変わった兄妹と行動を共にしていると、面白い事が起こりそうな予感がしたのだった。
 もっとも、肯定的な返事はあまり期待していなかったが――
「そう、だな。 頼めるか」
 表情をほとんど変化させることなく返ってきた答えは、意外にも、イエスだった。
レスをつける


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Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・後】
御神楽 紫苑 [Mail]
1/29(Tue) 2:50

 お互いに名乗りを済ませ、一人が三人になって、猫目堂へと向かう道。
 兄の名をアレス、妹の名をアレシエルという兄妹は、きょろきょろと辺りを見回す妹の手を兄が握り、紫苑の後についてきている。
 紫苑が贔屓にしている『猫目堂』は、調合材料となる様々な植物・鉱物や薬品に関して、この『篝火横丁』の中でも最高の品揃えをもつ店のひとつである。
 種類が豊富なだけではなく質も兼ね備え、相応の値段を取られはするものの、外れがない事で一部に有名だ。
 その所在は横丁の奥の奥、一般の観光客達は最早寄り付かず、漂う蛍火もまばら、常に薄暗く人気のない場所。 よく猫の集会場と使われている場所でもあるため『猫町』と呼ばれる一角である。
 『猫目堂』の店主もまた、小さな瞳孔をした、奇妙に吊りあがった金色の目を持っているため、彼も猫又なのではないかと噂をされているし、魔導院の一部ではそれが事実であることは既にして公然の秘密でもある。
「随分奥まで入るんだな」
「一見さんお断りの店なのよ。 私は父が常連だったの」
 そんな事を話しながら、何個目かの角を曲がる。
 無秩序に乱立する建物――ほとんどは『ひねもす街区』成立前にあった、既に廃屋となった家屋や商店である――や街区の構造体を支える柱がまるで迷路のように入り組んでいる横丁の深部は、この場所をよく知るものによる案内が無ければ必ず道に迷うことで有名な場所である。 人気もあまり無く、五分ほど歩いた今も誰にも出会わない。
「ところで」
 紫苑はアレシエルの手を引いて歩くアレスに身を寄せた。
「気付いてる?」
 少し背伸び加減になって彼の耳元に唇を寄せ囁く。 傍から見ればそれは美男美女同士の甘い会話に見えたかもしれないが、内容は至って殺伐としたものだった。
「6人だな」
 アレスの見立てに、紫苑は「そうね」と頷いて、アレシエルの頭にぽん、と手を置いた。
「しばらくしゃがんで、目つぶってて。 あと耳もふさいどきなさい」
「うん」
 その言葉に、幼子は特に戸惑う様子も見せず従った。 さては、「こういうこと」は初めてじゃないわね、と見当をつけ、紫苑はアレスの方を見る。
「素直だなぁ。 普通は人見知りするんだが、こいつ」
「私の人徳ってものよ、きっと。 ま、情操教育に悪いわ、こういうことは」
「同感だ」
 皮肉げな口調で肯定する赤毛の剣士を横目に、紫苑は向かってきた方を見た。 敵も紫苑達が立ち止まった事――すなわち、自分たちに気付いたことを察知し、速度を速めて三人の方へと向かってくる。
 手に持つ得物は様々。 着用している防具や肌の色、ひいては種族も不統一な集団は、何者かに雇われた傭兵であろう事は容易に想像がついた。
 ならば、と紫苑は考える。 ――この集団は、誰を狙ってきたものか?
 自分自身という可能性を、まず彼女は除外した。
 現在の複雑な政治状況を動かす鍵である御神楽家、その当主の妹の身柄を押さえ、蘇芳との交渉材料に利用する――それは浅はかな者どもが考えそうなことではあるが、彼女が亡父に匹敵する強力な術師であるということを、彼らが考えに入れない筈はなかった。  このような有象無象の傭兵達を当ててくるはずがない。
 とすると、と紫苑は横目で、大剣を気だるげに弄んでいるアレスと、その後ろで丸くなっているアレシエルに目をやった。
 まさか、と思ったが、紫苑自身でないならばこの二人。 そこに至ったところで彼女は思考を打ち切り、眼前の敵に対する対処をいかにして行うか、という命題に切り替えた。
 得意の火炎魔術は真っ先に却下された。 この建造物の中にまた建造物がある空間内のそれも路地、道端には空箱やら塵芥やら可燃物が大量に転がっている場所である。
 下手をしようものならこの『ひねもす街区』が都の大部分を巻き込んで焼失しかねない。
 さらには、要は派手好きな彼女の得手とする術は爆炎、閃光、雷撃、空間爆砕などなど、どれもこの環境には不向きなものばかり。
「後始末も面倒だし……」
 やれやれ、というふうに呟いて、彼女は至極原始的な方法に頼ることに決めた。 すなわち、何の意味づけもしない、ただ指向性だけを持たせた魔力を放出する衝撃魔術。
「いまいちノらないわ」
「お前な……というか、あまりに慣れた対応だから聞き忘れてたが。 お前、戦えるのか」
「あら、私を誰だと思ってる?」
 アレスの、呆れたような口調での問いを、紫苑は鼻で笑い飛ばし、ゆっくりと勿体ぶった動作で腕を天井向けて掲げると、その先端、白く繊細な指を、ぱちん、と鳴らす。
「あぁ、知ってるわけもないか」
 そうしたところで紫苑があるひとつのことに気付き、発せられた少しばかりの残念さを含んだ声には、空気が弾ける乾いた音が続き、さらにはくぐもった悲鳴が連鎖した。
「そうね、自己紹介の続きをしましょっか――名は言ったわよね、確か。 姓は御神楽、氏は月読、位は従五位、立場は皇家内親王。 ま、だからって何が変わるわけでもない、精々ちょっとしがらみが増えるくらいよ。 宮家の内親王なんて継承順位も下の下、天照がちゃんとしてれば普通は気にもされやしない。 今は違うかもしれないけどね……」
 誰に聞かせるわけでもなく、淡々と。
「で、ここから大事よ?」
 言いながら、もう一度ぱちんと指を鳴らす。 吹き飛ばされてもめげることなく、じりじりと近づいてきていた傭兵達が、また悲鳴を上げて強制的に後退させられる――今度は先ほどより幾分か威力も上がり、何人かは足が重力を振り切って宙を舞い、後頭部から地面に激突するものもあった。
「魔導師。 この国で、達人と目される位階にまで至った魔術師に贈られる号。 そのひとりが私」
 そして彼女は、にこやかに相手に呼びかけた。
「さて、有象無象のみなさま。 私が皇国最高位の術師の一角だと知って、抵抗する意思はおありかしら」
 あるはずもなかった。





「二度と手ぇ出そうなんて思うんじゃないわよー」
 ほうほうの態で逃げてゆく傭兵達に向けて、ひらひらと手を振る紫苑。
 任務を達することができないばかりか、ほとんど戦いもせずに逃げ帰った彼らには、雇い主なり傭兵組織なりから何らかのペナルティが課されることだろう。
 しかし、それがたとえ痛みを伴うもの、ひいては死に直結するものであろうと、彼女の知ったことではなかった。
「なんだなんだ、勝手に一人で話進めて丸く収めやがって」
「丸いかどうかは知らないけど。 なに、戦いたかったの?」
「こっちはスイッチ入ってたんだよ」
 残念そうな顔で大剣を仕舞い込むアレスをよそに、紫苑はくるりと振り向いてかがみこみ、言われたとおりにうずくまって目を瞑り、両手で耳を塞いでいるアレシエルの背中をぽんぽんと叩く。
「ふえ?」
「もう終わったわよ」
 そう言いながら、砂色の外套のおかげで、まるで団子かなにかのように見えるアレシエルの肩を支えて立ち上がらせ、ぱんぱんと服についた埃を払ってやる。
「う?」
 顔を上げ、戸惑った様子であたりを見回す彼女を、アレスは抱き上げて肩の上に乗せてやった。
「で」
 そんな二人を、紫苑は真剣な表情で見据える。
「二人とも。 今の集団なり、狙われる理由なり。 ……心当たりは?」
 問う言葉は静かに低く発せられたが、そこには鋭いものがあった。 押し黙るアレス、うつむくアレシエル。 兄妹が揃って口をつぐんでしまうと、紫苑はふう、と吐息した。
「言えない理由があるってわけ? ま、私は赤の他人。 それなら敢えて詮索する事はやめましょう。 でも」
 一息置いて、彼女は再び問うた。
「多少のお節介はさせて貰える?」
「……ん?」
 目をぱちくりさせる妹と、問い返す兄。 最も、紫苑は是非の如何なく、二人にそうさせるつもりでいたのだったが。
「しばらく、うちの屋敷の部屋を貸してあげるわ」
「……本気か?」
 それはつまり、彼女とその身内にも危険が及ぶかもしれない、という事。 アレスの言葉の意味を察して、しかし紫苑は頷いてみせた。
「皇国の太陽たる天照に対して、御神楽は月。 天照の闇と恐怖の象徴、四神騎士団の中核を長らく占めてきた歴史は伊達ではないわ」
「あんまり関係ない気がするんだが――まあ、俺たちとしても助かるのは確かだな」
 その言葉に紫苑は頷いて、それなら交渉成立ね、とアレスの手をとった。
「こうするのが、そっちの礼儀なんでしょう?」
 屈託のないその笑顔を見て、アレスは小さく吐息すると、おざなりな調子で握り合った手を上下に振るのであった。





 かくて、アレスとアレシエルの兄妹は、しばらくの間御神楽邸に滞在する事になったのである。
 家人や蘇芳には多少の驚きをもって迎えられたが、元々、旅人への宿の提供も貴族が行うべき義務のひとつであり、紫苑が事情を説明すれば、あとはさして揉めもしなかった。
 紫苑はアレスからこれまでに立ち寄った異国の都市の話を聞くのが楽しみだったし、家人達もアレシエルをよく可愛がった。
人見知りの彼女が打ち解けるにも、そう時間はかからないだろう、と紫苑はみている。
 もっとも、あまり話好きでも話し上手でもないアレスは、面倒がっているような節もあったが――それでも紫苑の興味津々という態度と、話し終わった後の心底からの謝辞と笑顔には、悪い気はしていないようだった。
「クレドはキランからさらに南西に行ったところにある、ジャングルと砂漠の境界線にある街だ。 ヤースって名前の、幅がこの都ほどもある大河を隔てて西側がスクルズの乾燥地帯。 あのあたり一帯はスクルズで最も農業が盛んな場所のひとつらしい……ま、聞いた話だが」
「クレドっていうと、シャージャハーン朝よね?商業に対する規制も緩くて、こっちの貿易商達もよく立ち寄るっていうわね」
「そうなのか? 俺はよく知らんが。 ま、確かに……スクルズでも色んな所に行ったが、クレドと、あと……そっから奥の方だ、街道を辿った先にある……」
「奥って言い方もないでしょうに。 北って言いなさい、北。 ヤスバース、シャージャハーン朝の首都よ」
「ああそうだソコだ。 いい街だったぜ、食い物も美味いし宿もいい、おまけにいい女までついてくる」
「食事に宿はいいとして……女?」
「ああ、知らんなら知らんままの方がいい」
 そんな、紫苑の知らない世界の話も織り交ぜつつ。
 紫苑とおなじ棟の客用寝室をあてがわれ、賓客級の扱いを受けていた二人だが、食事だけは共にしない事になった。
 アレスの強い意向で、貴族の食事に舌が慣れてしまうとあとあとで困る、というのだ。
 それもまた一理ある、と紫苑も蘇芳も承服し、アレスはアレシエルを邸内に残し、自炊用の食材を求めて、『ひねもす街区』へとふたたび出かけたのだった。
 そこで滞在初日に彼が買い込んだのは、スクルズ大陸をはじめとした南方で産する十数種類の香辛料の粉末と、玉葱などの季節の野菜類、そして挽肉。
 とくに香辛料類は輸入品ということで多少値が張ったが、紫苑から食費として、「お釣りは要らないわよ」という有難い言葉と共に手渡された一枚の金子で、十分すぎるほどだった。





「こんの大馬鹿兄貴ッ!!!」
「……!?」
 御神楽邸に帰ってみれば、聞こえてきたのは屋敷中に響かんばかりの怒鳴り声。 さらに聞こえてきたのは何かを投げるような音と、したたかに肉を強打する音。
 さて何が起きたんだ、と半ばいぶかり、半ば楽しみにしながらアレスは母屋へと歩を進めてゆく。
 事が起こっているのは蘇芳の自室だった。 慌てていたり面白そうな顔で見物していたりする使用人たちの間を抜けて彼がその部屋に入ってみれば――
「おいおい……」
 そこでは頭に上った血で白い頬を紅潮させた紫苑が蘇芳を床に組み敷いて馬乗りになり、ゆらめく陽炎をまとう握り拳を振り上げていた。
「さ、落ち着きましょう、ほら、ね?」
「これがっ、落ち着いてっ、いられるかッ! なんで、そういう、私の身に関わる、大事な大事な事をっ、私の同意もっ、意見もっ、なにも無しに決めるわけぇ?!」
 息継ぎの度に拳が空を切り裂いて奔る。 それを首の動きのみで回避するという芸当を見せながら、蘇芳は必死にはとても見えない表情と、必死にはとても聞こえない暢気な口調で、妹をなだめようと――
 しているようには見えなかった。 余計に彼女の神経を逆撫でしているようにしか見えない。
「……何があったんだこりゃ」
 あまりの光景に、やや呆れ気味の口調でアレスが呟くと、それが聞こえたのか紫苑は顔を紅潮させたまま彼の方に振り向いた。
彼女が心底忌々しげな口調で、「この馬鹿がね……」と切り出そうとすれば、蘇芳が「違うでしょう紫苑、『お兄様』です」と、余計な事を言ってさらに紫苑を怒らせる。
「帰っていいか」
 そんな事が続いて、さすがにアレスにも興味も失せかけてきた頃、やっと紫苑の手が止まった。 ぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら、ゆらりと幽鬼のように立ち上がる彼女。
 乱れた髪に、薄藍の和装のやや崩れた襟からは汗の浮く鎖骨と豊かな胸がのぞく、非常に艶っぽい姿なのだが、その白い肌と髪の間から覗く真紅の眼光の苛烈さが凄絶な雰囲気を加えている。
「……どうもね。 昨日、じゃない、一昨日だっけ? うち宛てに、二条家から書状が届いてね」
 その横に、蘇芳が相変わらずの柔和な笑みを浮かべながらいつのまにか立っていた。
「そこにはですねー、紫苑さんを、今度の週末に催される夕食会に招待したいと書いてありまして」
 不自然なまでに朗らかな声で、蘇芳。
「ほう」
「勝手に返事出してね、こいつが。 どうしても行かなくちゃいけなくなっちゃったのよ」
「いいじゃねえか、美味いもの食えるんだろ?」
 きょとんとした面持ちでアレスが問い返すと、紫苑は「それだけならまだ良いんだけどね」とかぶりを振って、
「ゆーくーゆーくーは! 私と結婚したい、なんて言いだしてンのよあの馬鹿が! ああもう、考えるだけで怖気が走るわ、あんなの」
「……蘇芳。 部外者の俺が言う事じゃないかもしれねーが、お前何考えてるんだ」
 アレスの非難がましい目にも蘇芳は表情ひとつ変えず、「だって、面白そうじゃないですか」とのたまう。 御神楽蘇芳とはつまり、こういう少し困った人間なのだった。
「なに、せっかくご招待して頂いたのですから。 美味しいものを食べるだけ食べて、丁重に断ってくればいいではありませんか?」
「それで向こうが大人しく引き下がるとも思えないけどね……わかったわかった、行くわ、行けばいいんでしょ」
 ひらひらと手を振り、もううんざりという口調で話を切ろうとする紫苑。
「で、聞いちまった俺だが、口止めとかなしで帰っていいのか?」
 入口の傍の壁に寄りかかっていたアレスが、げんなりした面持ちで腕組みしながら聞く。
「あー良いわよ別に。 みっともないとこ見せちゃったわね」
「申し訳ない、御客人に見苦しいところを。 主に紫苑さんが」
「原因作ったのは誰よッ!?」
「んじゃ、俺は部屋に戻ってるからな。 兄妹仲良くやってくれ」
 再び紫苑が蘇芳に掴みかかろうとするのを見届けて、アレスは背中を壁から離してくるりと踵を返し、気のない声で手を振りながら、後ろ手で引き戸の取っ手を引いた。
「……ふう」
 扉が完全に閉じ、足音が遠ざかってゆくのを確認すると、紫苑は大きく吐息し、がっくりと頭を垂れた。
 ……そして次に彼女が顔を上げるとき、先ほどまでの感情の嵐は霧散し、真紅の瞳には冷徹な理性の光が宿っている。
「お兄様。 貴方は」
 鋭利な眼光が蘇芳に突き刺さる。
「御神楽の人間が二条に招待を受け、夕食をともにしたという事実だけ、噂として都に流すつもりでしょう」
 紅玉の矢に射止められ、鋭い詰問を浴びせられて尚、柔和な――貼り付けたような笑顔を浮かべたまま、彼は黙して何も語らず。  それを見て、紫苑は最後の問いを発した。
「……つまり、貴方は私も駒とするつもりだという事?」
「まさか……。 貴方は不確定要素にしかなりません、方程式を破壊しかねない。 計算になど入れませんよ」
 開かれた口から出たのは、冗談めかした否定の言葉。 半月形に吊り上った瞳の奥からのぞく光と、紫苑の真紅のそれが交錯する。
「はン」
 そして紫苑の口の端に浮かぶのは、皮肉げな微笑。
「お兄様。 貴方は自分だけが頭が良いと思っていらっしゃるようで」
「ほう?」
「何もかも貴方の思惑通りにゆけばいいのだけれどね。 仮に二条が私を捕えて人質とし、自家の派閥の支持を求めてきたらどうなされるおつもり?」
 その問いに、一瞬だけ蘇芳は虚を突かれたような顔になったが――
「ふ……はは、あはははは!」
 唐突に、堰を切ったかのように笑声を爆発させた。
「な、何がおかしいのよ」
 対する紫苑はやや赤面がちに、戸惑いの表情もありありと、少しだけ上ずった声で問う。 それに対する答えは、紫苑をして黙り込んでしまうに十分なものだった。
「どうするも何も、万が一そうなったとしても貴女がそんな、人質なんていう地位に甘んじていられる性格であると、自分で思っているんですか?」
 と、目尻に涙を浮かべてまで言う蘇芳に、紫苑は一瞬「な……!」と言葉に詰まり、顔を紅くしてそっぽを向いてしまった。
 そうなのだ。
 たかが二条家の命運ごときが、皇位継承権の行方程度のものが、自身の生命の安全を媒介にして取引され、そのために自身の自由が奪われる。
 そんなことは、彼女にしてみれば許されてはならない事。
 蘇芳の言葉はまさにその通りというもので、仮に自身がそのような状況に陥ったとしても、立ち塞がる障害を全て叩きのめし捻り潰しそして焼き尽くし、自力で状況を打開するに違いない。
 御神楽紫苑とは、そういう人間なのだ。
「おやおや図星を突かれて赤面ですか。 貴女にもそんな、年頃の少女らしさがあったとは、やれ意外意外、明日は矢か槍でも降りますかね」
「……黙れ糞兄貴ッ!!」
 かすれた怒声と共に、陽炎ゆらめく拳が蘇芳に迫る――





「ったくもう……」
 自室に戻った紫苑は、書見台の前の安楽椅子に腰掛けてひとつ大きく伸びをすると、先程の兄の部屋での出来事をふと思い出し、顔を僅かに紅潮させてかぶりを振った。
 部屋の隅、舶来の柱時計が指している時刻は六時少し前。 夕食まではあと少々というところだが、暇をつぶすための何かを始めるにも少々中途半端な時間ではあった。
 どうしようか、と顎に手をあてて考えてみても、出てくるのは先程の事ばかり。
「……ん?」
 形のよい鼻梁が、ひくひくと動く。 漂ってくる香りは、ひねもす街区によく出掛ける彼女にとっては馴染み深い、南方産の香辛料のもの。
 馴染みとはいえ、素材の味を活かすことを至上の命題とする応神の調理師達が腕を振るう、この御神楽家の夕餉の時間にそれらが使用されることは稀だ。
 なら、この香りの出所はどこかしら――と、紫苑は襖を開けて、外の様子を伺ってみた。
 中庭を見渡す廊下に出ると、その回答がはっきりした。
「アレス?」
「厨房を使わせて貰おうと思ったんだが、こいつの匂いがキツいって追い出されてなぁ」
 そう言う赤毛の青年の背後には、湯気を立ち上らせる真鍮の鍋がある。 それが下に敷いている竈の石も、兄妹が椅子代わりにしている石も、全てどこかで見たような形をしていた。
「ちょっと、それ、うちの庭石!」
「騒ぐな騒ぐな、なんだお前も食いたいのか」
 アレスがそう茶化すように言うと、鍋の向こう側に座っていたアレシエルがぱっと顔を上げ、瞳を輝かせて紫苑をじっと見てくる。 紫苑はもはや怒るに怒れず、はぁ、と嘆息して両手を挙げてしまった。
 全面降伏だった。 肩をすくめ、かぶりを振りながら元は庭石だった椅子に腰を下ろす紫苑。 ひんやりとした感覚が着物の布地越しに伝わってきて、彼女は一瞬身震いした。
「で、これ何?」
 紫苑が指差す先には、鍋のなかで煮え立つ、どろどろとした茶褐色の流動体があった。 中には挽肉や細かく刻んだ野菜類が見え、香りは何種類もの香辛料のものが混ざり合ったと思しき複雑なもの。
 世界中から商品が流入し、様々な人々が行き交う「ひねもす街区」で紫苑はこれと似た料理を見たことがあったが、名までは知らなかった。
「この間話したクレドで教えて貰った料理でな。 調合したスパイスを香り付けに使って、炒めた小麦粉と肉やら野菜やら、その場にあるもんを煮込む」
 鍋をかき混ぜながら、アレス。 その横には、鍋の中の液体と同じ色をした粉末が入った瓶がある。
「こいつが便利なんだ。 味も香りも濃いから、振りかけて焼くなり混ぜて煮るなりすれば大概のもんは食えるようになる。 ちょうど残り少なくなっちまったから、ここで補充できて助かった」
「ふぅん……」
 様々な野菜と挽肉の、そして多種多様な香辛料。 それらが溶け合い、混ざり合った味を紫苑は想像する事ができなかった。
 それからしばらく彼女は鍋のそばに座りこんでアレシエルと話していたが、鍋をかき混ぜたりかまどの火を調節したりと忙しそうにしていたアレスが顔を上げ、紫苑を呼んだ。
「何?」
「お姫さんのお前にこんな事を頼むのもあれだがな。 厨房から米を三人分貰ってきてくれるか?炊いてある奴な、生でも別に構わんが」
「ええ」
 それからしばらくして、厨房の方角から怒声に続いて何か爆発音めいたものが聞こえてきたが、アレスは聞かなかった事にした。
「あーもう」
 やれやれ、といった表情で戻ってきた紫苑は、米びつをひとつ抱えている。 大儀そうにそれを置くと、紫苑は再び庭石の椅子に腰を下ろして、満天の星空を見上げた。
 この、何処までも続く空の下に広がる大地。 生きているうちに、自分は一体、そのうちのどれだけを目にし、歩く事ができるのだろうか――。
 目を閉じて想いを馳せていると、アレスに肩を叩かれた。 彼が下を指さす先を見てみれば、そこには湯気を立てる皿があり、紫苑が持ってきた白飯に、先ほどまで鍋の中で煮込まれていたものがかかっている。
「餡かけ炒飯なら食べた事があるけど……。 これも匙で?」
「本場じゃ手掴みらしいがな。 ま、これでも使え」
 アレスが紫苑に手渡したのは、手製と思しき木製のスプーン。
「ありがと・・・でも、あなたのは?」
「俺は本場の食べ方でやってみるさ」
 そう言うと、アレスは皿の上のものを手で掴んで食べ始めた。 その横でアレシエルは、片手に皿、もう片方に匙を持って夢中で料理を口に運んでいる。
 紫苑はしばらくその光景と、自分の皿と木匙とを見比べていたが、やがて彼女は木匙を置き、皿の上のそれを手で掴んだ。
「おい」
 アレスが目を丸くするが、紫苑は平然としている。
「いいの、私がやりたくてやってるんだから」
 そう言うと、紫苑は澄ました姿勢で料理を口に運んで、しばらく口を動かしていたが――突然、ごほごほと激しく咳き込んだ。
 喉を押さえ、銀糸のような髪を振り乱して、まるで重病人のようなありさまに、さすがにアレスも心配になったようだ。
「大丈夫か?」
 アレスが背中をさすってやると、ようやく落ち着いた紫苑は顔を上げ、目に涙を浮かべて苦笑した。

「これ……すっごい辛いのね」


 零紀元、二九九八年三月五日。 皇国は、未だ表向きは平穏の内にあったのだった――。
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Inperishable Will【3:夜は踊る】
御神楽 紫苑 [Mail]
3/1(Sat) 19:55

 蹄の刻む規則正しいリズムが、妙に耳に障る。 馬車の小さな硝子窓から外を見れば、過ぎてゆくのは早春の、やっと芽吹き始めた森、森、森。
 時は三月、命の季節の訪れを象徴するかのような風景とは裏腹に、私の心中は穏やかではまったくない。
 まあ、あんな事をされて穏やかでいられる人間が居たら、それはきっと感情というものを失っているのだろう、と考えざるを得ないけれど。
 はあ、というため息が自然と口から漏れた。 この馬車の行く先で待っている事、そしてその場で私がしなければならないことを考えるだけでも、心が重く沈んだようになる。
 そして都合が良いのか悪いのか、窓から見える木々の梢の上にかかる空は、絵に描いたように見事な曇天だった。
 先に見えるのは、エル・ネルフェリア様式の真っ白な外壁に青く彩られた屋根が乗る細い尖塔。
 かの激しい陽光が降り注ぐ上空三千米の空中都市で築き上げられてきた建築様式は、この応神皇国の幽玄な森林の風景の中には酷く似つかわしくない様相を晒している。
 その天空の都ルーンティアスにあれば、この建物はそれに相応しいだけの華麗さをもって人々の目を楽しませるだろうが、ものには場というものがある。
 窓から見える、落葉樹常緑樹入り混じった森とその中を抜ける細い小道。 響き渡る鶯の声と雲間から控えめに注ぐ陽光という、応神の風景。
 相応しいのは、応神で長年をかけて培われてきた様式――そう思うのは、きっと私だけではないと思う。
 その、先ほどから私が散々酷評している建物こそが、今現在の目的地、二条家が都の東、二見の山中にもつ山荘。
 持ち主は当主にして今度の夕食会の主催者である実篤で、設計も彼が行ったらしい。
「何かにかぶれやすい性格って事かしら……」
 勿論の事、婚姻の申し出に対する私の答えは『否』だ。 自由に外を出歩けるようになってからいまだ三年も経たない間に、今度は他家の妻などという鳥カゴに押し込められてたまるものか。
 まあ、押し込められたところで、その壁をぶち破ってやるだけだが、そういうカゴの存在そのものが、私としては我慢ならないのだ。
 はぁ、とまた吐息が漏れる。 眉間にシワがよった顔で相手に会うわけにもいかないし、平常心を維持したいところ。
 あの馬鹿にとっては正直言って「私がここに来た」という事実だけが大事らしいが、何もかもがあんな奴の思う通りになるわけがない。
 平穏無事に終わってしまった時のために、御神楽の立場があまり悪くならないよう、注意して振舞わなければならない。 面倒な話だ。

 やがて、曲がりくねった山道は終わり、御者の声がもうすぐ目的地に到着することを告げた。
 私は重たい御神楽家乙種礼装に包まれた身体の姿勢を直しつつ、心のスイッチを、かちり、と切り替える。

 ――猫を何重にもかぶった、とも言う。





 御神楽家乙種礼装――
 皇家の色である白い布地であつらえた振袖に、御神楽家の家紋である五菱の紋を藍で染め抜き、金の飾り帯でそれを留め、その上に振袖と同色の白地に、藍色で縁取った羽織を一枚。
 これは紫苑が髪上げの儀を行った時に仕立てられた特注品だ。  さらに今の彼女は、魔導院の紋入りの扇を携えて、首元には御神楽家伝来の大きな青玉が輝く精緻な装飾が施された白金の首飾りをかけている。
 そんな豪華極まる出で立ちだが、紫苑にしてみれば「重い」という感想が真っ先に上がるのだった。 その外見は気に入ってはいるものの。
 屋敷の門が開き、馬車は敷地内へと招き入れられた。
実篤設計だという庭園は、応神式と西洋式のものが入り混じったどっちつかずの様相を呈している。
 この分だと、招待主の人格的な面に期待できるものは無さそうだ、そう紫苑は思って、ますますげんなりとした面持ちになった。

 二条実篤は、赤を基調にした束帯を纏い、やたらと重そうな羽飾りが大量についた烏帽子を頭に載せて紫苑を出迎えた。 蘇芳よりも外見に貫禄があるが、内部に充実したものがないように紫苑には思われた。
 当然、二人の会話も噛み合うわけがない。 楽隊の演奏が終わり、形だけは感激した風な顔で拍手をしてみせている紫苑に、実篤は熱っぽい表情で語りかける。
「殿下には、しとやかで慎み深い妻、さらには優しく賢き母となって戴きたく存じます」
 早速これか、と紫苑は思う。
 獲物を捕えてもいないのに皮算用をする猟師やら、はたまた城を陥とす前に略奪のことを考える無能な指揮官やらを思わせるその言葉を内心で嘲笑いながら、彼女はくすりと笑ってみせた。
「実篤様は気がお早いのですね」
 その言葉に、実篤は意表を突かれたように目をぱちくりさせた。 既に決まった気でいたのか、御目出度い奴、と紫苑はさらに嘲笑の度合いを深め――しかし表面上はあくまで笑顔のまま。
「私はまだ、此度の仕儀に関しまして、返事も申し上げておりませんのに」
 くすくすと鈴を転がすような声音で笑う紫苑は、実篤の目には十二分に魅力的に映ったようだった。
 紫苑の言葉を受けて彼はははと笑い、「それでは、殿下の御心は如何なるものでありましょうや」と問えば、問われた側は「それは後の御楽しみと致しましょう」とかわす。
 丁度、宴席の前方に設けられた舞台で能が始まり、実篤が演目の由来や役者の来歴、時代背景はては独自の能楽論までも滔々と語るのを聞き流しつつ、紫苑は考えを巡らせた。
 すなわち、どのような言葉でこの男の鼻持ちならない申し出を断ってやるか。
 既に意志の決まっている彼女を相手にして、絢爛たる饗宴を開き、その中でいかにも貴公子然とした挙措と、精一杯の教養をもって彼女の気を惹こうと考えている実篤は、彼女にしてみれば滑稽にすら見えた。
 ――もちろん能を楽しみ、目の前の料理に舌鼓を打つのは忘れない。 合間の狂言は純粋に面白かったし、懐石は料理人の細やかな気配りが感じられる素晴らしいものだった。

 舞台が終われば、宴もたけなわ。 相変わらず紫苑が実篤に向ける視線は冷めていたが、実篤の方はといえば、紫苑からの回答を心待ちに目を輝かさんばかりだった。
 彼の心中には、断られるという事態は想定の埒外に存在しているようだ。
「して、殿下――」
「そうですわね、そろそろ御返事を致しませんと」
 身を乗り出さんばかりの実篤。 紫苑はす、と目を細め、開いていた扇を閉じた。
「お断りさせていただきますわ」
「おお、身に余る――は?」
「耳掃除はよぉくしておく事ね。 今私が何と言ったか、しかと思い出してみなさい」
 かぶっていた猫をかなぐり捨て、嘲けりも明らかに紫苑は笑ってみせた。 かん、と靴音も高らかに席を立ち、天井を振り仰ぐ。
「茶番はもう沢山。 貴方のような男の妻など、願い下げだわ」
 言い放ってから再び実篤の方を見れば、まるで鯉のように口をぱくぱくと開閉させながら、顔色を赤くするやら青くするやらと忙しげなありさまで、紫苑としてはいささか意地の悪い満足を覚えるものだった。
「厨(くりや)と楽屋に御礼を申し上げてから帰る事に致しますわ。 ついでに転職も勧めてくるけれど」
「ま、待たれよ!」
 紫苑が踵を返しかけたところで、ようやっと実篤は人語を口にした。
「う、裏切ったな、私の想いを裏切ったなッ!」
 あまりにも馬鹿馬鹿しいので、彼女は反応を唇の端を少し吊り上げるだけに留めた。
 これでもともと紫苑と実篤が愛し合っているなり、婚約者同士なりというならこの言葉ももっともというところだ。
 しかし、彼女は実篤の申し出に対して返答をするためにこの場にやってきたのであり、またこの場はそのために設けられたもののはずだった。 実篤が勝手に舞い上がっていただけのこと。
「この――この――」
 何か言おうとする実篤を無視して、紫苑はさっさと歩き出す。 それを見て、また実篤は口をむなしく数度開閉させた後に言葉を搾り出した。
「まだ話は終わっておらぬ!」
 肩を竦めて紫苑は立ち止まってやった。
 兄の実篤に対する評が、「『自称』芸術家」である理由が、紫苑にはわかった気がした。 立ち居振る舞いにも言葉にも、まるで個性がない。
 芸術とやらの断片だけを集めて作ったいびつな立体造形(オブジェ)――それが二条実篤なのだ、と。
「大体、御神楽家の姫君であられる殿下が斯様な言葉遣いを――」
「さっき私に敬語使うのを完ッ全に忘れてた癖によく言うわ。 大体、それで誰かが困るの? 元々、情報を伝達するのには最小限の言語表現でいいのよ。 余計なものが混じるほど情報の純度が落ちる。 その点じゃ今の私も相当な無駄をしている事になるわね」
「そのような話で煙に巻こうなどと」
「理解できないのね――ま、気に入らないなら帰るけれど。 それでも私にこだわるというなら、その理由をお聞かせいただけないかしら。 興味があるわ」
「私は平凡な女性など求めてはおらぬのです!」
 このときばかりは、実篤の返答はこの上なく明瞭だった。
「私は、殿下、貴女という女性をこの国で、いや、この世で最も美しく優雅で品のある貴婦人にしてさしあげるという使命が――むが」
 とうとう激発した紫苑が投げつけた圧縮空気の塊が、陶酔気味の実篤の口を塞ぐ。
「黙れ、耳が腐るわ! 無駄な使命感はけっこうだけど私は付き合う気は毛頭ないの。 そんなに美しく上品で優雅な女が好きなら、そこらの頭が弱い貴族の娘相手にお楽しみになったらいかが!?」
 怒気がそのまま陽炎となり、着物の裾と、白銀の髪とを揺らめかせる。 瞳に宿る真紅の光はその苛烈さをさらに増し、彼女の逆鱗に触れてしまった愚かな青年貴族を貫いた。
「言う事言ったらすぐ帰ろうと思ってたところだけど――」
 彼女の足元にあった床材からは、ちりちりと音が聴こえてくる。
「気が変わったわ」
 だん、と音を立てて一歩を踏み出せば、迸る熱波がテーブルクロスの端を消し去り、実篤の髪をちりちりと焼いた。
「泣かす」
 目一杯低くした声で宣言し、彼女はさらに一歩を踏み出した――そして、実篤の口の端が急に吊り上がった。 それは奇怪で、醜悪な笑みだった。
 そして、ぱん、と手をはたく音。
「!?」
 直後に訪れた変化は劇的なものだった。
 紫苑の足元の床が消失し、着物の裾をはためかせながら、一歩を踏み出した姿勢のまま紫苑は床下に落下した。
 反射的にとった受身は、底に厚手のクッションがしきつめられていたお陰で無用のものとなったが、身を起こして体勢を安定させるのに彼女は若干の努力を要した。
「今度は忍者屋敷の真似事かしら? つくづく先人の模倣だけは御上手ね」
 痛烈な皮肉が実篤の顔を叩くが、皮肉られた側は勝者の余裕というべきか、至って鷹揚な態度であった。
「何を言ったところで、御身の置かれた状況が変化するわけではありませぬぞ、殿下」
「それは認めざるを得ないわね――不本意ながら」
 その言葉にいい気になったのか、淵から顔をのぞかせた実篤に対して、紫苑は熱衝撃波を放つべく、指をぱちん、とひとつ鳴らした。
「――と、閉じろ!」
 狼狽も明らかな声と共に顔が引っ込み、開いていた床が閉じる。 白光は分厚い石床を白熱させるに留まり、彼女が望んだ結果をもたらすには至らなかった。

 ――光が完全に遮られてなお、穴の中は仄明るい。
 発光材料が使われているのか、ぼんやりとした光を発する壁に寄りかかって、紫苑はどうすべきか思案した。
 壁はどうやら石のようだったが、継ぎ目が非常に滑らかになるよう仕上げられており、よじ登るのは彼女の体力では困難そうだった。 そもそも上まで上がれたところで、天井を空けないことにはどうしようもない。
 ぶち破る事もできない事はないだろうが、その場合熱く焼けた破片や礫やら、下手を打つともっと大きな塊を浴びかねず、結果は恐らく愉快なものではない。
「八方塞り、か」
 このまま座して、状況の変化を待つほか無い。 そう結論付けて、彼女は綿のクッションに、半ばうずもれるようにして座りこんだ。
 実篤の性格は、捕えた獲物をそのまま放っておくことができるようなものではない事はわかっていた。 故に、再びこの落とし穴の蓋が開く時がいつか必ず来るであろう。
 さらに、彼女が刻限通りに帰らなければ、御神楽の本邸に動きが生じるはずだ。 狸めいたあの兄は或いは何もしないかもしれないが、彼女を慕う少女剣士は絶対にここに来るだろう。
 そこに思い至って、紫苑は頭を抱えた。 先日の樹妖には通用しなかったとはいえ、輝夜の実力はそこらの雑兵程度が相手になるようなものではない。
 しかし、彼女以上の実力の持ち主もまた多数存在するのが現実だった。 この山荘に、その中の一人が居ないとどうして言えよう?
「……あ」
 ふと脳裏によぎったのは、先日出会った赤毛の戦士の精悍な容貌だった。 しかし、彼はそもそも傭兵くずれの旅人だ。 御神楽家に逗留しているとはいえ、彼に紫苑を助ける義務はない。
 だが、彼女は不思議と、その青年――アレスを頼ってみる気になったのだった。





 時計を見れば、そろそろ午後八時を回ろうかというところ。 刻限を過ぎても、紫苑は御神楽邸に戻らない。

 冴月輝夜は、湯浴みを済ませ、寝巻きに着替えて自室で兵法書の頁をめくっていた。
 紫苑の部屋とは違い、畳張りの床の隅に置かれた箪笥と本棚以外大した調度もない、こじんまりとした小さな部屋だ。
 本来ならば彼女は護衛役として、紫苑と共に在るはずだった。 しかし紫苑は輝夜の同行を断り、御神楽邸にて待つよう言いつけて行ったのだ。
 その場では承服したものの、彼女の心中では様々な感情が燻っている事は言うまでもない。
 ――何故、紫苑様は私の同道を拒んだのか。
 その理由に関しては考えないようにして、彼女が出発して以降も剣の修練やら、他の使用人の手伝いやらをしていた彼女だったが、状況がここに来て、彼女も気が気ではなくなってきた。
 まず、時計と兵法書の間を視線が往復する回数が増えていった。 やがて足が貧乏ゆすりを始め、さらには肩が震えだす。
 そこでとうとう彼女は立ち上がり、鏡台の引き出しから赤いリボンを取り出して、まだ生乾きの髪を頭頂部近くで纏め上げ、きっと唇を引き結ぶ。
 箪笥からサラシ布と袴、小袖を取り出して着替え、その上に軽合金製の胸当てと手甲を身につけ、たすきを締めて刀を帯び、仕上げに額に鉢金を巻く。
「紫苑様……」
 少女から剣士へ、ものの数分で転身を遂げた輝夜は、鏡台の上に置かれた、紫苑の笑顔が写った写真を手に「今助けに参ります」と呟いて決心を固め、いざ、と襖を開け放った。
 その一方で、蘇芳もまた自室で外出の準備を進めていた。
 紫苑を送り出した後、魔導院から丁度彼の元を訪れていた左院別当、弓削鷹亮(ゆげ たかあきら)による二乗実篤の人となりについての話が、彼にらしからぬ不安を感じさせているのだった。
 その時の会話は、このようなものだ。
「敢えて妹君を送り込むか。 君らしいが、吉凶どちらに転ぶかわからぬ策だな」
「私は全ての糸を把握している訳ではありません。 二乗実篤は実質的に二条家を動かす身、その彼がどう動くかを確認しておきたいのです」
「だがな――私は彼に何度か会ったことがあるが、あれは論理や理性、打算といったもので動く男ではないぞ。 自称芸術家と君が言っていたが、まさに感性とやらの赴くままに諸事を運びかねん男だ。 二条殿も、よくもあのような男に後を任せる気になったと私は思うね」
「ふむ……」
 自分よりふた周りも年上の、父の腹心だった魔導師の話に、蘇芳は眉をしかめてしばし考え込んだのだった。
 蘇芳としても実篤の人となりを完全に把握しているわけでもなく、どう動くかの見当は付け難い部分がある。 それ故に、その出方を知りたくもあったのだったが。
 略式礼装に着替え、晶石が嵌め込まれた細身の直剣を身に付けて、家令に外出を告げるため、彼は部屋を出る。
 そのようにして、二人が行動を開始した直後――
「泰華宮邸に不穏の動きあり!」
 その様な知らせが御神楽家の門扉を破って飛び込んできたものだから、二人は玄関で顔を見合わせることになった。
「――事が多すぎますね」
 一瞬、蘇芳は渋面を作ったが、逡巡する時間はごく短かった。 泰華宮家に起きた変事やら、現在の皇家を取り巻く政治状況やらに、輝夜が興味をまったく抱いていないことは解りきっている。
「輝夜さん。 あなたには二見山の山荘に赴いて、彼女を助け出していただきます。 私は魔導院に向かいますので」
「事と次第によっては――二条様を、斬ります。 よろしいですか」
 発せられた問いには必死の念が篭っていたが、受ける側は柔和な表情を崩さなかった。
「貴女のやりたいようにやりなさい。 彼が生きるにせよ、死ぬにせよ、取れる途はいくらでもあります」
 無言でこくりと頷いて、輝夜は厩舎の方へと駆けていった。
「さて……」
 状況は芳しくない。 御神楽邸の者が二条家の山荘に赴いて紫苑を救出する、それ自体が政治的な意味を持ってくるのだ。
 蘇芳の思惑とは逆に、御神楽家と二条家の間に対立関係が生じた、と騒ぎ立てるものが出るかもしれない。
 だが、ここで鬼札を失う事は、何にも増して避けねばならない事だった。
「もう一つ、手を打っておきましょうか」 
 そう呟いて、蘇芳は邸内に戻っていった。





 時刻はとうに午後九時をまわっていたが、この危険に満ちた夜はまだ始まったばかりだった。
 こと、二条家の山荘に勤める人々にとって、紫苑の来訪と実篤の暴走など、これから訪れる混乱の序曲に過ぎない。
 御神楽家の姫君を迎えた宴は主賓が消え失せたことによってなし崩しに終わり、帰る客もないままに門が閉じられてからしばらくして、その事件は起きた。
 厩舎に火が放たれたのだった。
 問題の場所は建物からは離れた位置にあるために延焼の心配はない。
 しかし、逃げ出した馬が炎に興奮して暴れ、それを押さえつけようとした二条家の私兵達も身体のそこここを蹴飛ばされ、酷いものは踏みつけられ、一時状況は混乱を極めた。
 その隙に乗じて、輝夜は軽々と塀を乗り越え、山荘の敷地への侵入を果たしていた。 身軽な動作で手近な樹の枝上に飛び乗ると、屋敷の屋根を目指して樹伝いに飛び移ってゆく。
「それにしても――誰が厩に火を?」
 そんな疑念はあったが、利用できるものは利用するまでの事だった。
 勿論のこと、これで万事上手く行ったと輝夜が思っていたわけではない。
 その予感は屋敷の尖塔に匹敵しようという高さの松から、鎧戸が半分開いている窓に取り付こうとしたところで現実となった。 闇夜の向こうに気配を感じ、刀の柄に手をかける輝夜。
 とうとう来たか、と奥歯を噛み締める。 頬に汗が伝い、心臓が鼓動を早める。
 人を斬ることに躊躇がないわけではない。 しかし、それが武家に生まれた者の宿命とあれば、彼女は粛々とそれを受容するつもりでいた。 家を継ぐ必要が無くなった今でさえ、その決意は変わらない。
 「敵」が動いたのが感じられる。 空を切って飛来する何かを、抜刀からの一振りで打ち落とし、彼女は尖塔の屋根に飛び移った。
不安定な足場だが、それは敵も同じ。 問題なのは技量と錬度の差だ。 目の前に黒装束に覆面の姿を捉えて、輝夜は気を引き締める。
 敵は誰何の声すら発しない。 自分を捕えてから聞き出す気か、或いは――逡巡を振り払い、輝夜は一歩を踏み込んで、一息に刀を振り下ろす。
 忍はそれを後方に飛び退いてかわしたが、輝夜はもう一手を打っていた。 振り下ろした刀身の勢いを手甲に刻まれた術式の力を借りて殺し、そのまま斬り上げに転じる。 無論刃は忍には届かない――が。
「!?」
 覆面から垣間見える目が、いっとき大きく見開かれたように、輝夜には見えた。 直後、忍はぐらりと平衡を崩し、身体の中央に紅い線がはじける。
「……冴月の間合いは、切っ先が届く距離だけじゃない」
 息を荒げながら呟く輝夜。 その視線の先で、真っ二つに別たれた忍の身体が、血と臓物の尾を曳きながら夜闇へと消えてゆく。
冴 月流の嫡子として育て上げられたその実力は、伊達ではない。 13歳の女子ゆえの、小柄で華奢な体つきから来る膂力の不足を符術による強化で補った彼女は、並の実力では到底太刀打ちできるものではなかった。
「ぐっ――」
 こみ上げてくる嘔吐感を押さえつけ、震える手で刀を納める。 覚束ない足取りで屋根から下り、拡大しつつある騒ぎのせいか誰も居ない見張り台に座り込んだ。
 大きく息をして、つい先程までしていたはずの決意が揺らがぬよう、必死に気を保とうとする。
「まだだ……」
 呼吸を整え、ややあって立ち上がった彼女は、青い顔をしたまま塔の中へと足を踏み入れた。

 六階層からなる塔の三階までを下ったところで、輝夜は階下から聞こえてくる足音を耳にした。
 咄嗟に足音を殺し、今来た道を引き返したが、兵士達はそのまま上階へと上がる心積もりのようで、そのまま五階まで輝夜は追い詰められてしまった。
 彼女は知る由もないことだが、厩の火事の始末に駆り出されていた、もともと先程の見張り台に詰めていた兵士達が戻ってきたのだった。
 六階には身を隠す場所はない。 南無三、と輝夜は大仰な装飾が施された樫材の扉を僅かに開き、その中に身をすべり込ませた。
 部屋の中は薄明かりが灯り、あたりを見渡せる。 大理石の内装に、白亜の家具の数々。 柔らかな絨毯が床には敷かれ――そこまで観察したところで、輝夜は失策に気がついた。
 部屋の奥に立てられた衝立、その向こうにある寝台には人の気配。
 衣擦れの音が、その人物が起き上がったことを知らせていた。
 果たして誰か、敵か味方か。 何にせよ、気取られてしまった以上はどうにかして切り抜けるほかない。 輝夜の頭が回転をはじめる――
「誰だ?」
 が、その心配は無用のものとなったようだった。
「そのお声は……!」
「そう云うお前は、あの輝夜だな?」
 いぶかしむ声は闊達な笑声に変わり、その人物は衝立の陰から姿を現した。
「やはり、虎乃助様でしたか」
輝夜にそう呼ばれ苦笑する青年の歳は、紫苑より少し上といったところだろうか。
「幼名で呼ばれるのも久しぶりだ。 元服の儀には呼ばれていなかったか?」
「父について奥羽に行っておりました」
 輝夜の言葉に頷くと、今は実朝という名だ、と彼は言った。
 一時期、輝夜の父親に師事していた実朝は、剣の名手として宮廷の内外に名を知られ、さらに皇国の最高学府である皇都国立大学を卒業し、将来を嘱望されていた。
 しかし、身分の低い側室の子であるため二条家の継承権争奪には加わることはできなかった――という噂を最後に、彼の話を聞かなくなったのが輝夜の記憶だと数ヶ月前だ。
 蘇芳や紫苑ならば、丁度実篤が家督を継ぎ、直後に前当主が急逝した時期と重なる事に気がついただろう。
そして、彼がここに居る理由にも気がついたかもしれなかった。
「ところで、虎……いや、実朝様は――」
 輝夜が問いを発しかけたところで、扉を激しく叩く音。
「開けるのだ、実朝!」
 続いて聞こえてきたのは実篤の声だった。 ほかに複数の足音がするあたり、兵士を何人か連れているようだ。
 輝夜に衝立のうしろへと隠れるよう促しながら、実朝は一歩前に進み出た。
「斯様な夜更けに何事です、兄上」
「賊がこの塔に入り込んだという報告があったのだ。 故に下階から一部屋ずつ検分をしておる」
「見間違いではないのですか」
「それを確かめるためにも、だ。 開けぬというなら無理にでも開けさせてもらうぞ」
 実朝は答えない。
 かくして扉は強引に押し開かれ、実朝は四人の兵士に部屋への侵入を許すことになった。
 頬の肉皮を僅かに持ち上げる不快な笑い方で室内を見回す実篤の前に、ひとりの兵の手で輝夜が引き出されるまでそう時間はかからなかった。
「随分と大きな鼠がいたものだ」
 にやりと笑みの度合いを深め、実篤は一歩前に進み出た。 手に持った牛革の鞭を弄びながら、後ろ手を押さえつけられた輝夜を嘲るように言葉を発する。
 輝夜は藤色の瞳を爛々と輝かせ、二条家当主を睨みつけるだけ。
「名を聞いておこうか、少年?」
 実篤の言葉に、ぎり、と歯を軋らせる輝夜。 その態度が気に入らなかったのか、実篤は顔を不快げに歪め、鞭を振り上げ床をしたたかに打ちつける。
 嗜虐性を剥き出しにしたそのありさまに、実朝もまた不快げに眉をしかめた。 しかし武装した兵士三人に囲まれて武器も無く、行動を起こしようもない。
「さあ、喋って貰おうか。 お前は何者だ?」
 それでも輝夜は口を割らず、問いには烈火のような視線をもって答えとした。
「おのれ生意気な、思い知らせてくれる!」
 実篤の鞭が奔り、輝夜の背を激しく叩いた。 赤熱するような痛みに歯を食いしばり、眉をしかめる輝夜の姿を見ていささかの満足を覚えたのか、実篤は彼女にさらに歩み寄る。
 ――それこそが、輝夜が待ち望んでいた瞬間だった。
 形勢逆転は、一瞬。
 手甲に掘られた術式が光り輝いたかと思うと、輝夜は自らを拘束している兵士を跳ね飛ばし、爆発するような音と共に地を蹴って実篤の懐に飛び込んだ。
 振り抜かれた掌打は鳩尾を僅かに外したものの、実篤の身体に強烈な衝撃を与え、彼はうっと呻いて後退する。
「き、斬れ! 斬ってしまえ!」
 打たれた箇所を押さえながら、狼狽と怒りとが半々になったかのような声で叫ぶ実篤。 その声に応じて、実朝を囲んでいた三人の兵士は一斉に抜刀し、輝夜めがけて殺到した。
 今度は輝夜にも躊躇する気はなかったし、その暇もなかった。 兵士達が動き出すと同時に跳躍した彼女は、その最中に鯉口を切り、一息に刃を抜き放つ。
 銀の煌きには、血飛沫が続いた。 刀を掴んだままの右手が、赤い飛沫を撒き散らしながら床にぼとりと落ちる。 さらに輝夜は着地した片足を軸にくるりと向きを変え、もう一人に突きを見舞う。
標的になった兵士は慌てて身をかわそうとしたが、輝夜が早かった。 刃は頚動脈に達し、血が噴水の如くあふれ出す。
 あっという間に二人を失い、残った三人目は半狂乱になってめちゃくちゃに刀を振り回したが、「奔れッ!」という鋭い一声と共に実朝が放った風圧弾が鳩尾に直撃し、くずおれる。 
 最初の一撃から立ち直った四人目も輝夜に刀を折られ、もはや術無し、と両手を上げた。
「兄上。 私とて何も思うところなしに、ここで過ごしていたわけではないのです」
 それは、謀反の宣言。 輝夜の行動が実朝の裡に眠っていたものを呼び覚ましたのか、彼がもとより機を伺っていたのかは定かではないが、そんな事は輝夜には関係なかった。
「実朝様、助太刀ありがとうございます」
 感謝の言葉を述べながら、白い小袖を紅く染めた輝夜は、実篤に刀の切っ先を突きつける。
「さあ、紫苑様の居場所、教えて貰うぞ……!」
 ぜえぜえと肩で息をし、顔面は蒼白だったが、それが彼女の声に凄絶さを加えているように実朝には思えた。
 小心な実篤には、輝夜の脅しはよく利くだろうと思われたところだが、事態は実朝の想像通りには運ばなかった。
「ぐぬう……!」
 輝夜を睨みつけてあえいだ実篤は、意外な程の素早さで身を翻して、扉の外へと駆け去ってゆく。
「待て!」
 それで待つ者は歴史上に片手指ほども存在しないであろう、古典的な制止の文句を叫ぶ輝夜。
 一瞬振り向いて実朝に申し訳なさそうな視線を送ると、彼はそれに苦笑で返した。 行ってこい、という意思表示と輝夜は受け取り、放たれた矢のように部屋を飛び出してゆく。
 それを見届けて、実篤は樫の扉を閉じた。 兵士の死体を片付け、あとは彼はここで事態の収束を座して待つことにしたのだった。

 ――追い詰めた、と思った。 
 階段を下っていった輝夜は、その先で壁に張り付いている実篤の姿を見つけ、一旦収めていた刀の柄に手をかけ飛びかかろうとした。
 瞬間、響くけたたましい哄笑。
 突然のことに輝夜が面食らっていると、突然背後の壁がぐるりと回転し、実篤の姿はその向こう側へと消えてしまう。
「!?」
 輝夜は瞠目すると同時に、半ばあきれる思いだった――ここは忍者屋敷か何かか、と。
 結局のところ、実篤がしている事は旧来に存在したもののオマージュでしかないのだった。
 彼女が我に返って追いかければ、その先に広がっているのは石造りの小部屋。 奥にはさらに通路が続いていて、輝夜がそこに駆け寄ろうとした瞬間、轟音と共に鉄格子が落ち、行く手を塞いだ。
 そして聞こえてくるのは、実篤の耳障りな笑い声。
「かかりおったな、出でよ!」
 呼び声に応じてか、横の壁の一部が引き戸のようにずれて、そこから小山のような姿が現れた。
 明緑色の細長い胴、その上に乗っているのは触覚が生えた三角形の頭部。 節が分かれた胴の二節目からは強靭そうな二対の足と、鋭い刃をもった一対の鎌が生えている。
「さあ、勝った方しかここからは出られぬぞ。 私は高拠の見物とゆこう!」
 台詞といい、演出といい、すべてが芝居じみていた。 輝夜が上方をちらりと見れば、そこには小さな窓がある。 そこからこの部屋の様子を見下ろしているのだろう。
 背後の壁も動かず、退路はない。 確かに、部屋から出る為にはこの巨大蟷螂(カマキリ)を倒す他無いようだった。 しかし、実篤がその通りにしてくれるものか。
 ――汗が頬を伝うのを感じつつ、彼女は柄を握り締めた。





 人を相手にするよりは、幾分か気が楽だった。
 しかしそれは、敵が御し易いかという事に直結しているわけではない。 その点で言えば、最初に出会った忍者も、その次の兵士達も、この蟷螂に比べれば万倍は楽な相手に輝夜には思えた。
 正確無比な狙いに、巨体に似合わぬ素早い動き。 鎌本体に当たればもちろん、丸太のような腕に掠るだけで華奢な輝夜は木の葉のように吹き飛んでしまうだろう。
さらには。
「なッ!?」
 刃が、飛んだ。
 瞠目する輝夜だったが、驚いている時間はなかった。 まるで回転する鋸のように空を斬って飛来する刃を跳んでかわし、素早く懐にもぐりこむと、上方向けて気を溜めた渾身の突きを放つ。
 耳障りな悲鳴と飛び散る体液が、輝夜に命中を知らせた。 真上は首、無事では済まないはず――倒れこむであろう胴体を避ける為、彼女は急いで脇に飛び退く。
「やるなぁ、少年!」
「さっきは言いそびれたが、わたしは女だッ!」
 実篤の嘲弄混じりの賛辞に叫び返すと、相手は「それは失礼」と笑いを含んだ声で述べてから、またも哄笑を発した。
その中で、力を失って倒れる蟷螂。
「何が可笑しい、二条実篤! 約定を忘れたわけではないだろうな!」
「これで終わりだと誰が言ったね?」
 まさか、と輝夜が振り向けば、今倒したばかりの蟷螂の甲殻に細かなヒビが幾つも走っている。 紫苑にならば、その周囲に精密な術式が渦巻いている事も知覚できただろう。
「馬鹿な……!」
「知らぬも無理はないさ、これが本当の魔術だ――さあ、甦れ!」
 ひび割れからは光が溢れ出し、輝夜の視界を一瞬だが奪う。 それが失せた時には既に蟷螂は変貌を終え、名状しがたい怪物へと姿を変えていた。
 倍以上に太く、強靭になった腹。 気門にあたる部分には輝石のようなものが輝いている。
 胸からは二対の足と、二対のさらに大きな鎌が。 威嚇するように蟷螂が鎌を交叉させるたびに、金属がこすれる耳障りな音が響く。
 そして、逆三角形の頭には、白く大きな角が生えていた。
「ゆけ!」
 その声が合図か、二対の太い足が地響きを立てて動き出す。
さらに巨大になった鎌が目にも留まらぬ速さで振り抜かれれば、回転鋸のごとき一対の真空の刃が放たれ、輝夜を切り裂かんと迫る。
 先程は跳躍して回避できたが――今回は。
「大きい……!」
 到底、輝夜の跳躍力では飛び越えられそうにはなかった。 ならば大きく回って避けるか、隙間を縫うか。 思案している暇は与えられなかった。
 第二撃。 今度は縦に振り下ろされた鎌から、天井すれすれの高さはあるであろう巨大な二枚の刃が輝夜向けて迫る。
 意を決し、輝夜は迫り来る四枚の刃の間を走り抜けようと飛び込んだ。 回転によって生じる風圧は凄まじく、服の布地が悲鳴を上げる。
 歯を食いしばって風圧の暴威に耐え凌ぎ、蟷螂の懐に再び肉薄しようとする彼女に、さらに上方から二対の鎌が一斉に襲い掛かった。
 慌てて飛び退いたところに、岩をも切り裂く刃が落ちかかる。 数瞬遅れていれば、と思わず想像し輝夜は青ざめたが、蟷螂はいっとき輝夜を見失ったようだった。
 そして、その隙を見逃す程彼女は未熟ではない。
 手甲と脚甲の術式に魔力を込め、爆発するような音を立てて跳躍。 裂帛の気合と共に、一撃を放つ。
 響く高音、飛び散る装甲、そして吹き出る体液。 振り抜かれた輝夜の刃は、鎌の一本を関節部から斬り落とした。
 軋るような咆哮が響く。 身をのけぞらせ、苦悶しているかのような蟷螂だったが――すぐさま、青色の光が傷口を包み込む。 そしてそこから、ずるりと音を立てて現れるものがあった。
 新たな鎌。 滴る粘液と立ち上る湯気がグロテスクな様相を呈しているが、刃の煌きは先程に劣らない。
 血払いをするようにそれを一振りして粘液を払い落とすと、蟷螂はさらなる殺意もあらわに輝夜へと襲い掛かった。
 先程までの牽制するような動きとは明らかに違った。 鎌を振り回し、刃を飛ばしながら突進してくる蟷螂を、輝夜は間一髪の線でかわすのが精一杯。
 とても攻勢に出る余裕はない。 まずい、と輝夜が思い始めた、その時だった。
「退け!」
 後方の回転扉が開き、飛び込んできた紅い影。 彼は大剣を引き摺るようにして駆け、一息に蟷螂との距離を詰めると、振り下ろされる鎌に対して真っ向から剣を振り上げた。
 その時、輝夜には見えていた――大剣の鍔に嵌め込まれた晶石結晶が、目映い光を発して輝きだすのが。
 ぶつかり合う四本の鎌と、金属の刀身。 甲高い音に続いて、耳障りな擦過音があたりを圧して響き渡る。
 しかし、そのせめぎ合いも長くは続かなかった。 晶石結晶が一際輝きを増し、そして彼は口を開く。
「――失せろ」
 光が、はじけた。 音と衝撃が石造りの部屋を揺るがし、遅れて巻き起こった爆炎が蟷螂を包み込む。
「アレス殿!?」
 振り向いた姿に、輝夜は思わず声をあげた。
 御神楽邸の食客となっている彼ら兄妹だが、今回の件に関しては無関係なはずだった。 なにも、こんな旅の途中で立寄った場所の揉め事に、進んで首を突っ込むこともない。
 しかし彼は、愛用の大剣を携えて此処にいる。 しかも、輝夜を助けて、だ。
「話は後だ」
 煙の向こうには、まだ蠢く気配がある。
 そこから閃いた銀光をアレスは容易く受け流してのけると、晴れつつある煙の中に飛び込んだ。
「悪いが、これで」
 軽やかな音と共に跳躍し、大上段に赤熱した大剣を構え――
「終い、だッ!」
 一息に、振り下ろした。
 切っ先が蟷螂の頭頂に触れた瞬間弾けた火花の光が、輝夜の視界を染める。
 抵抗は数秒で潰え、蟷螂の身体は頭頂から一直線に切り裂かれ、響くのは断末魔。 そして刀身が蟷螂の身体の中央まで達したところで、アレスは蓄えた力を解き放つ。
 閃光と疾風が解き放たれ、紅蓮の炎が後に続く。 蟷螂は千々にその身を引き裂かれ、弾けて果てた。
「……何故、あなたがここに?」
 刀を納めながら、輝夜が口を開いた。
「蘇芳に頼まれた。 何だかんだで心配だったんだろう、妹が」
 肩を竦めるアレス。 そして彼は上方の小窓をしばらく眺めると、皮肉げな口調で呟いた。
「……ドサクサに紛れて、逃げたみたいだがな。 親玉は」





 ――二条実篤は、芸術家的な気質を確かに持っていた。 しかし、気質の存在と才能の存在は互いに保証し合うものではまったくない。
 有体に言えば、実篤にはその方面における才能というものが欠如していた。
 しかし彼はそれを認める事ができず、「芸術」と呼ばれるものには片っ端から手をつけた。
 歌や俳句を詠み、詩を書き、絵は西洋絵画の油彩に水彩、さらに水墨画などにも手を出した。 そして庭園や建物を建築し、茶道に陶芸も学んだ。
 もちろん、どれもものにならなかった。
 それでも彼には二条家の嗣子という身分と、その財産があった。 それらの使い方を誤らず、芸術を保護奨励でもすれば、或いは紫苑や蘇芳の彼に対する評価もまた違ったものになっていたかもしれない。
 だが、彼はそうはしなかった。 彼は自らの非才を認めざるを得なくなるにつれて、才能ある者を激しく嫉み、憎むようにすらなったのだった。

「……気色悪いったらありゃしない」
 吐き捨てるように、紫苑は呟いた。
 落とし穴の下に敷き詰められたクッションの下に、さらに蓋のようになっている箇所があり、そこを開けると石造りの階段が姿を現したのだ。
 その先に広がっていたのは、玄武岩と思しき岩石で作られた地下通路だった。
 じっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。 それだけでもかなり不快だが、それ以上に紫苑の気をいらつかせるのは、壁にびっしりと彫りつけられた不快な文字だ。
「なんとなく、わかる……?」
 父親からこんな文字を教わった覚えは、紫苑にはなかったのだが。
「応神の文字ではないし」
 指でなぞってみると、湿気を含んだ泥がべたりとこびりついた。
眉をしかめ、泥を払う。 白い着物の裾は泥だらけで、目も当てられない有様になっていた。
「ったく、それもこれもあの阿呆のせいだわ」
 見つけたらどうしてくれようか、と渋面でブツブツ呟きつつ、彼女は爪先に点した火を頼りに暗闇を進んでゆく。

 一方で、輝夜とアレスも昏く冷たい地下道を手探りで進んでいた。
 灯はといえば、外套の布を引き裂いたものを、先程輝夜が斬り飛ばした蟷螂の腕に巻きつけた即席の松明。
「すまない」
「ん?」
 唐突に輝夜が一言を発し、アレスは怪訝そうに問い返した。
「さっきは助けて頂いたにも関わらず、礼の一つも申し上げずに――」
「気にするな。 仕事だ」
 恐縮げな輝夜に対して、アレスは素っ気無い。
 それにしても、この迷路じみた通路は一体どこに続いているというのだろうか。 それが二人の、声に出さぬまでも、最大の関心事の一つだった。
 通路は全体として曲線をなしているが、曲がり角も多い。 どうにも全体として円形、あるいは渦状の形を成しているようだ、とアレスは考えていた。
 そして、輝夜はといえば、迷路の行方もそうだが、紫苑の行方が気になって仕方ない。
「ここは開けてるな」
 しばらくして、二人はやや広いドーム状の部屋にたどり着いた。 彼らが進んできた通路のほかにも、いくつかの通路がこの部屋に集まってきているようだった。
「紫苑様!」
 心配の程度が臨界を越えた輝夜が、とうとう必死さがにじむ声で叫ぶ。
「おい、敵に気付かれたら――」
 主の名を呼ぶ輝夜をたしなめようとするアレスだったが、そこで気がついた。
 ――かすかながら、声が返ってくるのだ。
「聞こえたか?」
 こくりと頷く輝夜。 確信し、アレスも声を張り上げる。
「紫苑! いるか!?」
 しかし、その呼び方がまずかった。 輝夜にとっては。
「な、何を無礼な!」
「……なにがだ」
「殿下とお呼びしろ、せめて様をつけろ!」
「些事だ」
「些末じゃない!」
 がるるる、と唸り声が聞こえてきそうな程の剣幕で怒鳴る輝夜。
「生憎、礼儀とかいうもんとは無縁のところで生きてきたんでな」
「くっ……!」
「まあそう怒るな」
 対するアレスは平静そのものだ。
「冷静さを失うと勝てる相手にも勝てなくなる」
「それとこれとは別の話だ!」
「別なものか、紫苑じゃなくて敵が来たらどうするんだお前」
「……なにを漫談してるの、あなたたち」
 そこに現れた当の本人。 コレはコレで相性がいいのか、とその時紫苑は思ったが、二人から文句を言われそうなので黙っておき、代わりに呆れ気味の一言を発する。
「し、紫苑様!」
 ぱっと表情が明るくなる輝夜。 紫苑はその頭を撫ぜてやった。
嬉しそうに目を細め、されるがままの彼女に、アレスは尻尾を振る忠犬の姿を見た。
「よう、無事だったか」
「お生憎様。 あんな小物に私がどうにかされると思って?」
 ふ、と口元を歪めるアレスに、紫苑は手の代わりに袖を振って答える。
 すると彼は、その笑みを意地の悪いものに変えた。
「その小物にまんまと捕まったみたいだが?」
「う、うるさいわね……宴会場に落とし穴なんて予想できなかったのよ」
 微妙に頬を紅潮させて、紫苑。
「そうだな、予想できん」
 アレスも頷いて、
「それが奴の怖いところだ。 お前も蘇芳も、奴が打算的、理性的に振舞う事を考えて行動した。 その結果がこれだろう?」
 と、相変わらずの口調で指摘してのける。
「まったくその通りね……ああ腹立つ」
 苦々しい顔の紫苑。 それでもいたずらに強がったりせず、素直に認めるところが彼女らしいといえばらしい。
「要するに奴はまともじゃない。 だから俺達『まともなの』には、奴が何をするかまるでわからん」
 ふう、とアレスは吐息する。
「こんな迷路だって、マトモな神経の持ち主なら造ろうなんて、ね」
 紫苑も大げさに肩をすくめ、やれやれとかぶりを振った。
「ともかく」
 湿気を含んだ重い袖をばさりと鳴らし、紫苑は足を広げ天井を仰ぎ見るように姿勢を直した。
「あの馬鹿をどうにかしてやらないと、気が収まらないわ……!?」
 語尾がにわかに上擦った。 直後に、地下通路の静寂を圧して響き渡る二人分の悲鳴。 思わず耳を塞いだアレスは、耳をつんざくような声が収まると、
「今女みたいな悲鳴を上げたのはお前らか」
 と、相当に失礼な疑問を発した。 しかし、二人には突っ込む余裕もない。
「う、うるさいわね! そそそそれよりそれ、なんとかしなさい!」
「わ、え、わたしも駄目なんですっ!」
 紫苑が擦れ気味の声で促しても、輝夜は輝夜で刀の柄に手をかけはするものの、その場から一歩も動けない。 よく見れば二人そろって手足が震えている。
「どうしたんだ……」
 げんなりといった面持ちで問うアレスに対して、二人は震える指先を彼の背後の壁面に向けた。
 振り向いてみれば、文字が彫り込まれた玄武岩の壁に一点、茶褐色の部分がある。
 それはよく見れば六本の足をもち、長い触角をぴくぴくと動かし、おおよそ楕円形に近い形で、てらてらとした光沢をもった昆虫だった。
「なんだ、こいつか」
「なんだ、って、なんだじゃないわよ!」
 半ば裏返った声で、抗弁になっていない抗弁をする紫苑。
 そのさまを見てアレスはにやりと笑みを浮かべ、かさかさと蠢くソレを右手で掴むと、二人の眼前にぐいと突き出す。
「ひっ!?」
 青ざめた顔で後ずさる輝夜。 一方で紫苑は、その場で氷像と化し――
「い……」
 そして、自分の中で何かが切れる音を、確かに聴いた。
「嫌ぁぁぁッ!!」

「お前らにも可愛いところがあるんだな」
 微妙に茶色味が増したアレスが、やっと発した一言がまずそれだった。
「だが爆発するほど可愛くしろとは俺は言ってないぞ」
「上手に焼けて結構なんじゃないかしら!?」
 アレスの有様は、こんがり、という形容が一番だろうか。 そんな彼のだいぶ先を、肩をいからせて往く紫苑の口調には、恥ずかしさと怒りがない交ぜになったものが感じられる。
 彼女のすぐ後ろには輝夜が従い、そしてやや離れてアレス。 このアンバランスな一列縦隊は、とりあえずこの迷路の中心と思われる方向に進んでいるはずであった。





 たどり着いたのは、仰々しい装飾が施された樫の扉の前。
 両脇を悪魔を模ったとおぼしき一対の彫像が固め、幾つかのおどろおどろしい装飾が施された燭台があたりを照らしている。
「いかにもこの先に黒幕がいるって雰囲気だな」
「いっそ、ここまで雰囲気出せる事を褒めてやりたいくらいね」
 皮肉混じりに二人が評する。 感じられるのは地下独特の湿気と、納骨堂を思わせるすえた臭い。 この瘴気じみた空気は、確かに演出に一役買っていた。
「気配がします」
 と、輝夜。 その言葉に紫苑は頷いて、すっと両掌を扉に向けた。
 片足をずいと前に出し、きっと口を引き結んで視線をただ一点、扉の中央に定め、自らの内圧を高めてゆくかのように、ゆっくりと目を閉じる。
「おい……」
 アレスが何かを言いかけるよりも早く、術は成った。
 いつもの、指を鳴らす小気味いい音の代わりに響いたのは、すらりと伸びた足が石畳を叩く高らかな音。 それが発動の合図となって式は実行(RUN)され、扉に向けられた掌の前に、特大の火球が現れた。
「伏せてッ!」
声と共に、破壊力を具現した火炎弾が飛ぶ。 熱風と共に飛翔したそれは扉の中央に着弾。
瞬間、内包した力を解放――紅蓮の炎を撒き散らして球が爆ぜ、盛大な爆発音と破壊音を撒き散らした。
「……やりすぎだろう」
アレスがそう呟くのも無理はない。 煙が晴れてみれば、扉は跡形もなく吹き飛んでいる。
魔術はさらに周囲の石壁までも道連れにしたようで、あたりには焦げた木片に加えて、砕けた玄武岩が散らばっていた。
「二条実篤ッ!」
鋭い呼び声と共に、紫苑は靴音高らかに部屋の中に踏み込んだ。 しかし、呼ばれた方は動かない。
彼女に背を向けて、玄武岩の壁面に埋め込まれた、人一人分はあろうかという直径をもった鏡を見上げて、全身をわなわなと震わせている。
「何故! 何故なのです!」
 突如上がった声は、悲鳴とも懇願ともとれるものだった。
「麗紗様……!」
 そう、ここには居ない誰かの名前を、青年貴族が呼んだ直後――紫苑は、周囲の魔力が一瞬だけ、尋常でない領域に高まるのを感じて僅かに身震いした。
 そして異様な音が響いた。 アレスと輝夜は、疑念を表情に滲ませて実篤を見据えるのみ。 ただ一人、紫苑だけがその音を聴いたのだった。
 束ねられた糸が、一息に断ち切られたかのような音。 それがとても忌まわしい音だと、何故か紫苑にはわかる。
そして、直後。
 激しい狼狽と憤り、恐怖と絶望、怨嗟とを混ぜ合わせたような、奇怪な声で叫ぶ実篤。 今度は、全員にそれは聞こえた。
嫌悪感を露にする輝夜。 眉間に皺をよせ、何が起きているのか解りかねている様子のアレス。 その二人の間にあって、紫苑は目を見開いて立ち尽くしている。
 先程の、糸が断ち切られるような音がなんだったのか。 それが彼女にはわかったのだ。
「魂の緒が……絶たれた?」
 致死魔術。 それも即効性のものだ。 父から授けられた知識でだけ知っていた、禁呪中の禁呪のひとつ。
 長い絶叫が終わり、実篤は二三度痙攣すると、糸の切れた人形のようにくずおれる。
「……!」
 直後、風船が割れるような音と共に、その体が爆ぜた。 血も肉もない、ただ灰色の粉のようになって、実篤だったものが散じてゆく。
 空恐ろしい光景に、三人はただ絶句して眺めていることしかできなかった。

「……あれは!?」
 ややあって、一番に『それ』に気付いた輝夜が声をあげた。
「!?」
「え……!?」
 アレスも、『それ』を見て一瞬言葉を失う。
 瞠目する紫苑。 鏡に映りこんでいるのは、すらりとした肢体と白磁の肌を持った一糸も纏わぬ少女。
 腰まで届く、白に近い銀色をした繊細な髪。 淡雪のように白く美しい肌。
 鋭角的な顎の線の上には紅色の唇が存在し、すっと伸びた鼻梁のやや上方の左右には、冷たい光をたたえる、鳩血色の紅玉をはめ込んだかのような瞳が光っている。
「私……!?」
 その存在は、数年前の紫苑に瓜二つの姿形をしていたのだった。
『あの馬鹿は期待ハズレだったわ。 もっと派手な事をしてくれると思ってたのに。 でも、こうしてあなたに逢えたのは、あいつのおかげかしら?』
 鏡の中の存在の口が動く。 それと共に、脳裏に直接語りかけるような感覚をもって、紫苑の意識にその存在が発していると思われる言葉が流れ込んできた。
『ごきげんよう。 やっと逢えたわね、お母様』
「なに……どういうこと?」
 困惑も露に、紫苑。 声が聞こえているのは彼女だけらしく、アレスと輝夜は何が起きているのか理解しかねているような顔のまま、鏡を見上げている。
『わたしはあなたから生まれた。 だから、あなたはわたしのお母様』
 若干ゆっくりとした調子ながらも、脳裏に響く声は紛れも無く、彼女自身と同じもの。 そのことがますます、彼女の意識を混乱させてゆく。
「なに、それ。 わけがわからない……貴女が? 私の?」
 かすれた声。 やっとの思いで問い返せば、相手はにこりと微笑んで頷いた。
『そうよ? 親子っていうのは少し語弊のある言い方かもしれないけれど。 わたしとあなたの基幹構造スペクトラムは、たった一箇所、個体識別タグだけを除いて同一なのは事実』
「何を言って……」
『個体識別タグまで同じだったら、それは同一人物が二重に存在していると誤認識されてしまう。 多重存在は許されていないから、その場で修正力が働いて後に出来たほうが消えてしまうわ』
 もはや、紫苑には相手の言っている事が毛程も理解できなかった。 ノイズだらけの思考は更に混迷の度合いを深め、彼女を不安定にしてゆく。
 血の気は失せ、冷たい汗が全身から噴き出す。 口腔内はカラカラに乾き、彼女は空気を求める魚のようにあえいだ。
『わからないのも当然よね。 だって、あなたは何も知らないはずだもの』
 その言葉で、紫苑の胸の奥底に在るなにかが、ずきんと疼いた。
 思考がますます混濁してゆく。 舌が口腔に張り付く。 喉が痛い。 骨格が軋む。 体の中を廻っているものが酷く乱れているのが、はっきりと自覚できた。
「紫苑様……!」
 明らかに様子がおかしい紫苑を見兼ねて、輝夜が駆け寄った。 我に返り、僅かに微笑んだ彼女は「ありがと」と小さく呟き、両の足に力を再び込めて、なんとか姿勢をただす。
 それを後ろから見ているアレス。 彼には、ふたまわりも小さい輝夜よりも今の紫苑は華奢で、ともすれば少しの衝撃でも壊れてしまいそうに見えた。
 襲ってくる既視感。 前、俺はあの位置、輝夜が居た場所にいなかったか――そんな念を振り払い、油断無く前方を見据える。
『……そうね。 半身って言い方の方が、しっくり来るわね。 さしずめ一卵性の双子』
 その間、考えこむような仕草をしていた鏡の中の存在は、得心したようにうんうんと頷いた。
『そう、わたしはあなたの分かたれた半分。 だから、わたしたちは――』
 続けようとしたところで、突然鏡面に映った像が乱れた。 耳障りなノイズと共に、鏡面は白と黒のモザイクが入り乱れる場と化す。
 ややあって復帰した映像の中で、その存在は別れを惜しむように微笑んでいた。
『――時間だわ。 今日はここまで』
「待って!」
 我に返り、制止の言葉を発する紫苑。 駆け出そうとする足は、意志の力で無理矢理押し止めた。
『駄目。 残念だけど、塔の外に出るのは物凄く疲れるの。 それじゃ、また逢いましょ』
 楽しげな声と、皮肉っぽい笑み。 それを最後に鏡面はホワイトアウトし、直後、それはただの大きな鏡に戻った。
 ふうっ、と大きく吐息して、紫苑は張りつめていた糸が緩んだかのように、だらりと肩を落とす。
「何を言ってたんだ、奴は?」
 会話の終了を察し、アレスが声をかける。 紫苑は力なくかぶりを振った。 元々白い肌が、病的なまでに青褪めている。
 額には球のような汗が浮かび、瞳は潤んですらいた。 一体あの短い時間の間に、何があったのか。 アレスと輝夜には伺い知ることはできない。
「もう、何がなんだか分からなくて……ごめん、私も上手く説明できない」
「……なら、無理に話すな」
 肩に手を置いてのアレスの言葉に、血の気が失せた唇を噛みしめながら、紫苑はただ頷くのだった。





 こうして、二見の山荘での事件は終息した。 二条実篤の死と、その弟実朝による家督継承が、この状況に何をもたらしうるのか。
 そして紫苑にとって、その様な事はもはや些事に過ぎなかった。 あの不気味な迷宮の最奥部、鏡の中に居た自分とそっくりな少女の言が、耳に残って離れない。
 だが、その様な想いとは関係なく、彼女たちは、動乱の渦中へと足を踏み入れているのだった。
 このとき既に、既に今代の泰華宮である影幸は命を失っている。 そして後を継ぐ長子、道幸の妻は、九条家の娘だった。
 泰華宮家は御神楽家と同様に、摂政を務める事ができる家。 その事に思い至らない蘇芳ではない。
 馬を飛ばして光宮に向かう彼の頭上で、月が雲に隠れて消えた――。
 
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