カーテンの隙間から差し込む陽光を顔に浴びて、アレス・イェルは目を瞑ったまま眉をわずかにしかめ、僅かに身じろぎした。 右腕で容赦ない朝の日差しを遮りながら目蓋を開き、上体を起こして時間を確かめてみれば、時計の短針は7と8の間を指している。 「寝すぎたか」 まあ、無理もない――昨日はやけに紫苑も乗り気だったことだし。 そんな事を想いつつ、隣に目をむけてみれば、普段は眠っている筈の、白い姿がない。 「んん?」 彼の妻、つまりは紫苑はあまり朝に強くない。 アルビノ特有の体質から来るハンディキャップの一部を術で補っているとはいえ、生来の低血圧にまで手をつける気にはならなかったようだった。 その彼女が先に起きているというのは滅多にない事で、彼がいぶかしむのも無理からぬことなのだ。 「ふむ」 腕を組んで暫し考え込む。 とりあえず起きるかと脳内会議は意思決定を行い、彼は下半身を包んでいたシーツを剥ぎ取ると、ベッドサイドに畳んであった衣服を身につけ、寝室の扉を開けた。 ――違和感。 嗅覚を刺激するのは、彼の生まれ育った西の国には存在しない、紫苑の郷里に独特の、豆と麹とを発酵させたペースト状の調味料の香。 聴覚を刺激するのは、金属板に彫られた式が力を発揮する際に発する擦れたような音と、金属と金属がぶつかり合う軽い音。 「あいつめ、珍しい事をする」 おおかた自分がこの刻限まで眠っていたのも、紫苑が寝入る間際になにかしたのだろう。 苦笑とそれ以外の成分が半々程度に混じった笑みが漏れて、思ったよりも殊勝なところのある妻の在所へと歩を進めることにした。 だが、彼が予想した場所にはその姿はなかったのだった。 或いは裸にエプロンなどという、漢の浪漫が結実した姿をしてはいまいかと期待していただけに、キッチンを覗き込んだアレスの表情は中々に面白い事になっていた。 ならばどこだ。 彼は気を取り直して、匂いと音の出所を、その鋭敏な感覚をもって探り始める。 決して広くないこの家で、その答えを出すのにそう時間はかからなかったが、導きだされた回答は彼の常識の範疇を超えていた。 その場所とは、妻が事ある毎に連発し、最早仲間内では伝説にすらなっている「地下室」。 その実態は紫苑の大きな書斎と実験室があるフロアで、元々この家には無かったのを、紫苑がかなり手荒な手段でもって掘り下げたのだった。 崩落しないかアレスは心配で仕方なかったが、そこは紫苑のこと、土壁を石壁に変える程度は朝飯前だったのだった。 つくづく魔術とは便利だな、と呆れ果てたアレスを背にして、紫苑は満足げな笑みを浮かべたものである。 今アレスはその「地下室」へと続く階段の前に立っている。 音と匂いの元を辿れば、この奥の実験室に至るはずだ。 しかし、そんな場所で紫苑は一体、何をしているのか――答えは明白だったが、彼の中の常識がそれを認める事を拒否してやまない。 どこに魔女の実験室で料理かます新妻がいるのか。 ここにいるぞ。 馬岱の名台詞だ。 意を決してアレスは一歩を踏み出した。 段をひとつ下るごとに強くなる味噌の香りに、認めたくなかった事実を認めざるを得なくなってゆく。 それでも最後の抵抗を続ける「希望」と「常識」と欠かれたプラカードを掲げる2名が脳内会議において数の暴力によって排除されると、彼は「これより先に進むもの、一切の希望を棄てよ」と無駄に流麗な書体で書き付けてある貼紙がされた扉のノブに手をかける。 いいのか。 まだ戻れる。 中にいる紫苑は気付いていない。 ここで戻って全てを忘れ、何食わぬ顔で食卓についていれば、きっと俺は味噌汁(仮)をはじめとした紫苑の愛のこもった手料理を食えるんだ。 脳内会議における少数派が、今度は搦め手によって自らの意志を挫けさせんとするのを押し留め、握った手に力を込めて捻り、扉を押し開いた。 直後、眼前に広がった光景は、彼が想像していたもの――魔女の釜を巨大な木匙でかき混ぜる妻の姿――ではなかったが、これはこれで想像の斜め上をゆくものだった。 「何してるんだ、お前」 そんな言葉しか出てこない。 「え?! あ、あら、アレス? ちょ、なんで、催眠術式の効果時間はもっと長――」 声をかけられて初めてそこに夫が居る事に気付いた紫苑は、白い顔を真っ赤にしてあからさまに慌て、挙句滑らせた手が卓上の三角フラスコを吹き飛ばし、中に入っていた液体を周囲にぶちまけた。 漂うダシ汁の香り。 「あ、あーっ!? せっかく調製した鰹ダシが!」 「……お前なあ」 フラスコを戻そうとする手が更に滑り、「昆布」とラベリングされたフラスコを倒す。 そのフラスコが更に別のフラスコに倒し、そんな調子でガラス器具達が破滅のダンスを踊る姿を、アレスは無感動に眺めやっていた。 いや、慌てる紫苑萌え位は思っていたかもしれない。 鍋の上には中和滴定用のビュレットが数本、中にはフラスコと同じ香りの液体。 複数の上皿天秤の片方には丁寧に計量したと思われる塩やら調味料やらが、そして実験卓の隅には、山と積まれた料理本。 全てを察して、アレスは大きく嘆息した。 家事に関してはあれだけずぼらな癖に、どーしてこーいう部分だけ完璧主義が顔を出すンだつくづくこいつの頭は理解できねぇ。 かろうじて、鍋本体は無事だった。 恐らく、その中身は完璧なまでに食材、調味料の分量を調整された、完璧にレシピ通りの味噌汁だ。 恐らく1mgの狂いとてあるまい。 「……あなたのせいよッ!」 半分涙目で怒鳴る紫苑の頭を、とりあえずアレスは一発はたいてやる事にした。 この程度は罪に問われまい。
――紫苑には、とりあえずなんでも自分流に置き換えて理解する癖があった。 これは魔術他の技能習得には大いに役立つものだったが、基本的にレシピ通りに作らなければいけない料理技能の習得に際しては、邪魔にしかならなかった。 さらに彼女は、研究者としての魂というか、既に誰かがやった事をしても意味が無い、という(余計な)信念を併せ持っていた。 それ故に彼女が作る料理という料理は常にレシピ通りには作られず、何かしらの食材が追加されていたり無くなっていたり、製法の一部が変化していたりしていた。 彼女に言わせれば、「変数の操作」だそうだ。
「で、散々失敗して俺にも呆れられたから、今度は意地でも分量通りにやろうと思った、と」 「……そうよ、悪い?」 「いや悪かないんだが、極端すぎるんだ前は……」 木製の椀には湯気を立てる豆腐の味噌汁が注がれ、別の陶製の椀には艶やかな白飯。 四角い平皿には、どこから調達してきたのか鮎の塩焼きが笹の葉の彩りを添えて乗っている。 小鉢にはホウレン草の煮びたし。 どうやら味噌汁は最後の仕上げだったらしく、それ以外のメニューは既に完成していたのだった。 「うん、美味い……美味いんだが」 テーブルにつき、鮎の身をほぐして一口。 それは確かに鮎で、塩加減、焼加減共に完璧なものだったが、何か少し物足りない。 「俺は」 そこで言葉を一旦切って、不意にアレスは立ち上がってまだ背後でむくれている紫苑の手をとり、ぐいと抱き寄せた。 「お前の料理が食いたいんだ」 「え……?」 頬を紅潮させつつ目をぱちくりとさせる紫苑の唇を奪いたい衝動に耐えつつ――こんな弱気、かつ小動物的な仕草を見せるのは心底珍しい事だった――アレスは続ける。 「確かに美味いんだ。 だけどな、コレはお前の料理じゃあない。 お前が買ってきた料理本書いた奴の料理なんだよ」 「でも、私が作ったって」 「上手くなりゃいいんだろうが」 俯き加減の紫苑の顎に指をかけて、無理矢理視線を合わせるアレス。 「俺が知ってる紫苑は、行く手を阻む障害はその全てを叩いて潰す、そんな奴だぜ? 料理程度の障害でヘタれる根性無しを、俺は好きになった覚えはないね」 「…………美味しくないかもしれないわよ?」 「別に構わん」 「お腹壊すかも」 「放浪生活長いからな、俺の胃は丈夫だぞ」 「死」 「そもそも食えんモノを入れなきゃいいんだろうが」 最後の物騒なひとことへの反応は、若干の切実さが篭っていたが―― 御神楽家の朝食騒動は、ここに平和的な解決をみたのだった。
数週間後、某所。
「どーしたんだ海老」 オープンスペースに設置された電子端末を自由に操作できるカフェで、シリカは見慣れた顔を発見した。 「何してんだ、こんなとこで」 「いいか、絶対に紫苑には言うなよ、バレたら俺が死ぬ、殺される」 「はあ?」 あからさまに怪しいと思っている顔で、シリカは端末の画面を覗き込んだ。 アレスが開いているページは、ネットワークにおいて最大級の規模を誇る匿名掲示板の、とあるスレッドだった。 そのスレッド・タイトルを認識してシリカは全てを察し、ぽん、とアレスの肩を叩いて、一言。 「おまえ、背中煤けてんぞ」 その、名は。
【大さじは】嫁のメシがまずい 第666皿目【お玉じゃない】
――彼の戦いは続く。 続くったら、続く。
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