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- Inperishable Will【まえがき】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:35]
Inperishable Will【1:極炎の姫君・前】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:43]
Inperishable Will【1:極炎の姫君・後】 - 御神楽 紫苑 [1/23(Wed) 2:47]
Re:Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・前】 - 御神楽 紫苑 [1/29(Tue) 1:53]
Inperishable Will【2:赤毛の兄妹・後】 - 御神楽 紫苑 [1/29(Tue) 2:50]
Inperishable Will【3:夜は踊る】 - 御神楽 紫苑 [3/1(Sat) 19:55]



Inperishable Will【3:夜は踊る】
御神楽 紫苑 [Mail]
3/1(Sat) 19:55

 蹄の刻む規則正しいリズムが、妙に耳に障る。 馬車の小さな硝子窓から外を見れば、過ぎてゆくのは早春の、やっと芽吹き始めた森、森、森。
 時は三月、命の季節の訪れを象徴するかのような風景とは裏腹に、私の心中は穏やかではまったくない。
 まあ、あんな事をされて穏やかでいられる人間が居たら、それはきっと感情というものを失っているのだろう、と考えざるを得ないけれど。
 はあ、というため息が自然と口から漏れた。 この馬車の行く先で待っている事、そしてその場で私がしなければならないことを考えるだけでも、心が重く沈んだようになる。
 そして都合が良いのか悪いのか、窓から見える木々の梢の上にかかる空は、絵に描いたように見事な曇天だった。
 先に見えるのは、エル・ネルフェリア様式の真っ白な外壁に青く彩られた屋根が乗る細い尖塔。
 かの激しい陽光が降り注ぐ上空三千米の空中都市で築き上げられてきた建築様式は、この応神皇国の幽玄な森林の風景の中には酷く似つかわしくない様相を晒している。
 その天空の都ルーンティアスにあれば、この建物はそれに相応しいだけの華麗さをもって人々の目を楽しませるだろうが、ものには場というものがある。
 窓から見える、落葉樹常緑樹入り混じった森とその中を抜ける細い小道。 響き渡る鶯の声と雲間から控えめに注ぐ陽光という、応神の風景。
 相応しいのは、応神で長年をかけて培われてきた様式――そう思うのは、きっと私だけではないと思う。
 その、先ほどから私が散々酷評している建物こそが、今現在の目的地、二条家が都の東、二見の山中にもつ山荘。
 持ち主は当主にして今度の夕食会の主催者である実篤で、設計も彼が行ったらしい。
「何かにかぶれやすい性格って事かしら……」
 勿論の事、婚姻の申し出に対する私の答えは『否』だ。 自由に外を出歩けるようになってからいまだ三年も経たない間に、今度は他家の妻などという鳥カゴに押し込められてたまるものか。
 まあ、押し込められたところで、その壁をぶち破ってやるだけだが、そういうカゴの存在そのものが、私としては我慢ならないのだ。
 はぁ、とまた吐息が漏れる。 眉間にシワがよった顔で相手に会うわけにもいかないし、平常心を維持したいところ。
 あの馬鹿にとっては正直言って「私がここに来た」という事実だけが大事らしいが、何もかもがあんな奴の思う通りになるわけがない。
 平穏無事に終わってしまった時のために、御神楽の立場があまり悪くならないよう、注意して振舞わなければならない。 面倒な話だ。

 やがて、曲がりくねった山道は終わり、御者の声がもうすぐ目的地に到着することを告げた。
 私は重たい御神楽家乙種礼装に包まれた身体の姿勢を直しつつ、心のスイッチを、かちり、と切り替える。

 ――猫を何重にもかぶった、とも言う。





 御神楽家乙種礼装――
 皇家の色である白い布地であつらえた振袖に、御神楽家の家紋である五菱の紋を藍で染め抜き、金の飾り帯でそれを留め、その上に振袖と同色の白地に、藍色で縁取った羽織を一枚。
 これは紫苑が髪上げの儀を行った時に仕立てられた特注品だ。  さらに今の彼女は、魔導院の紋入りの扇を携えて、首元には御神楽家伝来の大きな青玉が輝く精緻な装飾が施された白金の首飾りをかけている。
 そんな豪華極まる出で立ちだが、紫苑にしてみれば「重い」という感想が真っ先に上がるのだった。 その外見は気に入ってはいるものの。
 屋敷の門が開き、馬車は敷地内へと招き入れられた。
実篤設計だという庭園は、応神式と西洋式のものが入り混じったどっちつかずの様相を呈している。
 この分だと、招待主の人格的な面に期待できるものは無さそうだ、そう紫苑は思って、ますますげんなりとした面持ちになった。

 二条実篤は、赤を基調にした束帯を纏い、やたらと重そうな羽飾りが大量についた烏帽子を頭に載せて紫苑を出迎えた。 蘇芳よりも外見に貫禄があるが、内部に充実したものがないように紫苑には思われた。
 当然、二人の会話も噛み合うわけがない。 楽隊の演奏が終わり、形だけは感激した風な顔で拍手をしてみせている紫苑に、実篤は熱っぽい表情で語りかける。
「殿下には、しとやかで慎み深い妻、さらには優しく賢き母となって戴きたく存じます」
 早速これか、と紫苑は思う。
 獲物を捕えてもいないのに皮算用をする猟師やら、はたまた城を陥とす前に略奪のことを考える無能な指揮官やらを思わせるその言葉を内心で嘲笑いながら、彼女はくすりと笑ってみせた。
「実篤様は気がお早いのですね」
 その言葉に、実篤は意表を突かれたように目をぱちくりさせた。 既に決まった気でいたのか、御目出度い奴、と紫苑はさらに嘲笑の度合いを深め――しかし表面上はあくまで笑顔のまま。
「私はまだ、此度の仕儀に関しまして、返事も申し上げておりませんのに」
 くすくすと鈴を転がすような声音で笑う紫苑は、実篤の目には十二分に魅力的に映ったようだった。
 紫苑の言葉を受けて彼はははと笑い、「それでは、殿下の御心は如何なるものでありましょうや」と問えば、問われた側は「それは後の御楽しみと致しましょう」とかわす。
 丁度、宴席の前方に設けられた舞台で能が始まり、実篤が演目の由来や役者の来歴、時代背景はては独自の能楽論までも滔々と語るのを聞き流しつつ、紫苑は考えを巡らせた。
 すなわち、どのような言葉でこの男の鼻持ちならない申し出を断ってやるか。
 既に意志の決まっている彼女を相手にして、絢爛たる饗宴を開き、その中でいかにも貴公子然とした挙措と、精一杯の教養をもって彼女の気を惹こうと考えている実篤は、彼女にしてみれば滑稽にすら見えた。
 ――もちろん能を楽しみ、目の前の料理に舌鼓を打つのは忘れない。 合間の狂言は純粋に面白かったし、懐石は料理人の細やかな気配りが感じられる素晴らしいものだった。

 舞台が終われば、宴もたけなわ。 相変わらず紫苑が実篤に向ける視線は冷めていたが、実篤の方はといえば、紫苑からの回答を心待ちに目を輝かさんばかりだった。
 彼の心中には、断られるという事態は想定の埒外に存在しているようだ。
「して、殿下――」
「そうですわね、そろそろ御返事を致しませんと」
 身を乗り出さんばかりの実篤。 紫苑はす、と目を細め、開いていた扇を閉じた。
「お断りさせていただきますわ」
「おお、身に余る――は?」
「耳掃除はよぉくしておく事ね。 今私が何と言ったか、しかと思い出してみなさい」
 かぶっていた猫をかなぐり捨て、嘲けりも明らかに紫苑は笑ってみせた。 かん、と靴音も高らかに席を立ち、天井を振り仰ぐ。
「茶番はもう沢山。 貴方のような男の妻など、願い下げだわ」
 言い放ってから再び実篤の方を見れば、まるで鯉のように口をぱくぱくと開閉させながら、顔色を赤くするやら青くするやらと忙しげなありさまで、紫苑としてはいささか意地の悪い満足を覚えるものだった。
「厨(くりや)と楽屋に御礼を申し上げてから帰る事に致しますわ。 ついでに転職も勧めてくるけれど」
「ま、待たれよ!」
 紫苑が踵を返しかけたところで、ようやっと実篤は人語を口にした。
「う、裏切ったな、私の想いを裏切ったなッ!」
 あまりにも馬鹿馬鹿しいので、彼女は反応を唇の端を少し吊り上げるだけに留めた。
 これでもともと紫苑と実篤が愛し合っているなり、婚約者同士なりというならこの言葉ももっともというところだ。
 しかし、彼女は実篤の申し出に対して返答をするためにこの場にやってきたのであり、またこの場はそのために設けられたもののはずだった。 実篤が勝手に舞い上がっていただけのこと。
「この――この――」
 何か言おうとする実篤を無視して、紫苑はさっさと歩き出す。 それを見て、また実篤は口をむなしく数度開閉させた後に言葉を搾り出した。
「まだ話は終わっておらぬ!」
 肩を竦めて紫苑は立ち止まってやった。
 兄の実篤に対する評が、「『自称』芸術家」である理由が、紫苑にはわかった気がした。 立ち居振る舞いにも言葉にも、まるで個性がない。
 芸術とやらの断片だけを集めて作ったいびつな立体造形(オブジェ)――それが二条実篤なのだ、と。
「大体、御神楽家の姫君であられる殿下が斯様な言葉遣いを――」
「さっき私に敬語使うのを完ッ全に忘れてた癖によく言うわ。 大体、それで誰かが困るの? 元々、情報を伝達するのには最小限の言語表現でいいのよ。 余計なものが混じるほど情報の純度が落ちる。 その点じゃ今の私も相当な無駄をしている事になるわね」
「そのような話で煙に巻こうなどと」
「理解できないのね――ま、気に入らないなら帰るけれど。 それでも私にこだわるというなら、その理由をお聞かせいただけないかしら。 興味があるわ」
「私は平凡な女性など求めてはおらぬのです!」
 このときばかりは、実篤の返答はこの上なく明瞭だった。
「私は、殿下、貴女という女性をこの国で、いや、この世で最も美しく優雅で品のある貴婦人にしてさしあげるという使命が――むが」
 とうとう激発した紫苑が投げつけた圧縮空気の塊が、陶酔気味の実篤の口を塞ぐ。
「黙れ、耳が腐るわ! 無駄な使命感はけっこうだけど私は付き合う気は毛頭ないの。 そんなに美しく上品で優雅な女が好きなら、そこらの頭が弱い貴族の娘相手にお楽しみになったらいかが!?」
 怒気がそのまま陽炎となり、着物の裾と、白銀の髪とを揺らめかせる。 瞳に宿る真紅の光はその苛烈さをさらに増し、彼女の逆鱗に触れてしまった愚かな青年貴族を貫いた。
「言う事言ったらすぐ帰ろうと思ってたところだけど――」
 彼女の足元にあった床材からは、ちりちりと音が聴こえてくる。
「気が変わったわ」
 だん、と音を立てて一歩を踏み出せば、迸る熱波がテーブルクロスの端を消し去り、実篤の髪をちりちりと焼いた。
「泣かす」
 目一杯低くした声で宣言し、彼女はさらに一歩を踏み出した――そして、実篤の口の端が急に吊り上がった。 それは奇怪で、醜悪な笑みだった。
 そして、ぱん、と手をはたく音。
「!?」
 直後に訪れた変化は劇的なものだった。
 紫苑の足元の床が消失し、着物の裾をはためかせながら、一歩を踏み出した姿勢のまま紫苑は床下に落下した。
 反射的にとった受身は、底に厚手のクッションがしきつめられていたお陰で無用のものとなったが、身を起こして体勢を安定させるのに彼女は若干の努力を要した。
「今度は忍者屋敷の真似事かしら? つくづく先人の模倣だけは御上手ね」
 痛烈な皮肉が実篤の顔を叩くが、皮肉られた側は勝者の余裕というべきか、至って鷹揚な態度であった。
「何を言ったところで、御身の置かれた状況が変化するわけではありませぬぞ、殿下」
「それは認めざるを得ないわね――不本意ながら」
 その言葉にいい気になったのか、淵から顔をのぞかせた実篤に対して、紫苑は熱衝撃波を放つべく、指をぱちん、とひとつ鳴らした。
「――と、閉じろ!」
 狼狽も明らかな声と共に顔が引っ込み、開いていた床が閉じる。 白光は分厚い石床を白熱させるに留まり、彼女が望んだ結果をもたらすには至らなかった。

 ――光が完全に遮られてなお、穴の中は仄明るい。
 発光材料が使われているのか、ぼんやりとした光を発する壁に寄りかかって、紫苑はどうすべきか思案した。
 壁はどうやら石のようだったが、継ぎ目が非常に滑らかになるよう仕上げられており、よじ登るのは彼女の体力では困難そうだった。 そもそも上まで上がれたところで、天井を空けないことにはどうしようもない。
 ぶち破る事もできない事はないだろうが、その場合熱く焼けた破片や礫やら、下手を打つともっと大きな塊を浴びかねず、結果は恐らく愉快なものではない。
「八方塞り、か」
 このまま座して、状況の変化を待つほか無い。 そう結論付けて、彼女は綿のクッションに、半ばうずもれるようにして座りこんだ。
 実篤の性格は、捕えた獲物をそのまま放っておくことができるようなものではない事はわかっていた。 故に、再びこの落とし穴の蓋が開く時がいつか必ず来るであろう。
 さらに、彼女が刻限通りに帰らなければ、御神楽の本邸に動きが生じるはずだ。 狸めいたあの兄は或いは何もしないかもしれないが、彼女を慕う少女剣士は絶対にここに来るだろう。
 そこに思い至って、紫苑は頭を抱えた。 先日の樹妖には通用しなかったとはいえ、輝夜の実力はそこらの雑兵程度が相手になるようなものではない。
 しかし、彼女以上の実力の持ち主もまた多数存在するのが現実だった。 この山荘に、その中の一人が居ないとどうして言えよう?
「……あ」
 ふと脳裏によぎったのは、先日出会った赤毛の戦士の精悍な容貌だった。 しかし、彼はそもそも傭兵くずれの旅人だ。 御神楽家に逗留しているとはいえ、彼に紫苑を助ける義務はない。
 だが、彼女は不思議と、その青年――アレスを頼ってみる気になったのだった。





 時計を見れば、そろそろ午後八時を回ろうかというところ。 刻限を過ぎても、紫苑は御神楽邸に戻らない。

 冴月輝夜は、湯浴みを済ませ、寝巻きに着替えて自室で兵法書の頁をめくっていた。
 紫苑の部屋とは違い、畳張りの床の隅に置かれた箪笥と本棚以外大した調度もない、こじんまりとした小さな部屋だ。
 本来ならば彼女は護衛役として、紫苑と共に在るはずだった。 しかし紫苑は輝夜の同行を断り、御神楽邸にて待つよう言いつけて行ったのだ。
 その場では承服したものの、彼女の心中では様々な感情が燻っている事は言うまでもない。
 ――何故、紫苑様は私の同道を拒んだのか。
 その理由に関しては考えないようにして、彼女が出発して以降も剣の修練やら、他の使用人の手伝いやらをしていた彼女だったが、状況がここに来て、彼女も気が気ではなくなってきた。
 まず、時計と兵法書の間を視線が往復する回数が増えていった。 やがて足が貧乏ゆすりを始め、さらには肩が震えだす。
 そこでとうとう彼女は立ち上がり、鏡台の引き出しから赤いリボンを取り出して、まだ生乾きの髪を頭頂部近くで纏め上げ、きっと唇を引き結ぶ。
 箪笥からサラシ布と袴、小袖を取り出して着替え、その上に軽合金製の胸当てと手甲を身につけ、たすきを締めて刀を帯び、仕上げに額に鉢金を巻く。
「紫苑様……」
 少女から剣士へ、ものの数分で転身を遂げた輝夜は、鏡台の上に置かれた、紫苑の笑顔が写った写真を手に「今助けに参ります」と呟いて決心を固め、いざ、と襖を開け放った。
 その一方で、蘇芳もまた自室で外出の準備を進めていた。
 紫苑を送り出した後、魔導院から丁度彼の元を訪れていた左院別当、弓削鷹亮(ゆげ たかあきら)による二乗実篤の人となりについての話が、彼にらしからぬ不安を感じさせているのだった。
 その時の会話は、このようなものだ。
「敢えて妹君を送り込むか。 君らしいが、吉凶どちらに転ぶかわからぬ策だな」
「私は全ての糸を把握している訳ではありません。 二乗実篤は実質的に二条家を動かす身、その彼がどう動くかを確認しておきたいのです」
「だがな――私は彼に何度か会ったことがあるが、あれは論理や理性、打算といったもので動く男ではないぞ。 自称芸術家と君が言っていたが、まさに感性とやらの赴くままに諸事を運びかねん男だ。 二条殿も、よくもあのような男に後を任せる気になったと私は思うね」
「ふむ……」
 自分よりふた周りも年上の、父の腹心だった魔導師の話に、蘇芳は眉をしかめてしばし考え込んだのだった。
 蘇芳としても実篤の人となりを完全に把握しているわけでもなく、どう動くかの見当は付け難い部分がある。 それ故に、その出方を知りたくもあったのだったが。
 略式礼装に着替え、晶石が嵌め込まれた細身の直剣を身に付けて、家令に外出を告げるため、彼は部屋を出る。
 そのようにして、二人が行動を開始した直後――
「泰華宮邸に不穏の動きあり!」
 その様な知らせが御神楽家の門扉を破って飛び込んできたものだから、二人は玄関で顔を見合わせることになった。
「――事が多すぎますね」
 一瞬、蘇芳は渋面を作ったが、逡巡する時間はごく短かった。 泰華宮家に起きた変事やら、現在の皇家を取り巻く政治状況やらに、輝夜が興味をまったく抱いていないことは解りきっている。
「輝夜さん。 あなたには二見山の山荘に赴いて、彼女を助け出していただきます。 私は魔導院に向かいますので」
「事と次第によっては――二条様を、斬ります。 よろしいですか」
 発せられた問いには必死の念が篭っていたが、受ける側は柔和な表情を崩さなかった。
「貴女のやりたいようにやりなさい。 彼が生きるにせよ、死ぬにせよ、取れる途はいくらでもあります」
 無言でこくりと頷いて、輝夜は厩舎の方へと駆けていった。
「さて……」
 状況は芳しくない。 御神楽邸の者が二条家の山荘に赴いて紫苑を救出する、それ自体が政治的な意味を持ってくるのだ。
 蘇芳の思惑とは逆に、御神楽家と二条家の間に対立関係が生じた、と騒ぎ立てるものが出るかもしれない。
 だが、ここで鬼札を失う事は、何にも増して避けねばならない事だった。
「もう一つ、手を打っておきましょうか」 
 そう呟いて、蘇芳は邸内に戻っていった。





 時刻はとうに午後九時をまわっていたが、この危険に満ちた夜はまだ始まったばかりだった。
 こと、二条家の山荘に勤める人々にとって、紫苑の来訪と実篤の暴走など、これから訪れる混乱の序曲に過ぎない。
 御神楽家の姫君を迎えた宴は主賓が消え失せたことによってなし崩しに終わり、帰る客もないままに門が閉じられてからしばらくして、その事件は起きた。
 厩舎に火が放たれたのだった。
 問題の場所は建物からは離れた位置にあるために延焼の心配はない。
 しかし、逃げ出した馬が炎に興奮して暴れ、それを押さえつけようとした二条家の私兵達も身体のそこここを蹴飛ばされ、酷いものは踏みつけられ、一時状況は混乱を極めた。
 その隙に乗じて、輝夜は軽々と塀を乗り越え、山荘の敷地への侵入を果たしていた。 身軽な動作で手近な樹の枝上に飛び乗ると、屋敷の屋根を目指して樹伝いに飛び移ってゆく。
「それにしても――誰が厩に火を?」
 そんな疑念はあったが、利用できるものは利用するまでの事だった。
 勿論のこと、これで万事上手く行ったと輝夜が思っていたわけではない。
 その予感は屋敷の尖塔に匹敵しようという高さの松から、鎧戸が半分開いている窓に取り付こうとしたところで現実となった。 闇夜の向こうに気配を感じ、刀の柄に手をかける輝夜。
 とうとう来たか、と奥歯を噛み締める。 頬に汗が伝い、心臓が鼓動を早める。
 人を斬ることに躊躇がないわけではない。 しかし、それが武家に生まれた者の宿命とあれば、彼女は粛々とそれを受容するつもりでいた。 家を継ぐ必要が無くなった今でさえ、その決意は変わらない。
 「敵」が動いたのが感じられる。 空を切って飛来する何かを、抜刀からの一振りで打ち落とし、彼女は尖塔の屋根に飛び移った。
不安定な足場だが、それは敵も同じ。 問題なのは技量と錬度の差だ。 目の前に黒装束に覆面の姿を捉えて、輝夜は気を引き締める。
 敵は誰何の声すら発しない。 自分を捕えてから聞き出す気か、或いは――逡巡を振り払い、輝夜は一歩を踏み込んで、一息に刀を振り下ろす。
 忍はそれを後方に飛び退いてかわしたが、輝夜はもう一手を打っていた。 振り下ろした刀身の勢いを手甲に刻まれた術式の力を借りて殺し、そのまま斬り上げに転じる。 無論刃は忍には届かない――が。
「!?」
 覆面から垣間見える目が、いっとき大きく見開かれたように、輝夜には見えた。 直後、忍はぐらりと平衡を崩し、身体の中央に紅い線がはじける。
「……冴月の間合いは、切っ先が届く距離だけじゃない」
 息を荒げながら呟く輝夜。 その視線の先で、真っ二つに別たれた忍の身体が、血と臓物の尾を曳きながら夜闇へと消えてゆく。
冴 月流の嫡子として育て上げられたその実力は、伊達ではない。 13歳の女子ゆえの、小柄で華奢な体つきから来る膂力の不足を符術による強化で補った彼女は、並の実力では到底太刀打ちできるものではなかった。
「ぐっ――」
 こみ上げてくる嘔吐感を押さえつけ、震える手で刀を納める。 覚束ない足取りで屋根から下り、拡大しつつある騒ぎのせいか誰も居ない見張り台に座り込んだ。
 大きく息をして、つい先程までしていたはずの決意が揺らがぬよう、必死に気を保とうとする。
「まだだ……」
 呼吸を整え、ややあって立ち上がった彼女は、青い顔をしたまま塔の中へと足を踏み入れた。

 六階層からなる塔の三階までを下ったところで、輝夜は階下から聞こえてくる足音を耳にした。
 咄嗟に足音を殺し、今来た道を引き返したが、兵士達はそのまま上階へと上がる心積もりのようで、そのまま五階まで輝夜は追い詰められてしまった。
 彼女は知る由もないことだが、厩の火事の始末に駆り出されていた、もともと先程の見張り台に詰めていた兵士達が戻ってきたのだった。
 六階には身を隠す場所はない。 南無三、と輝夜は大仰な装飾が施された樫材の扉を僅かに開き、その中に身をすべり込ませた。
 部屋の中は薄明かりが灯り、あたりを見渡せる。 大理石の内装に、白亜の家具の数々。 柔らかな絨毯が床には敷かれ――そこまで観察したところで、輝夜は失策に気がついた。
 部屋の奥に立てられた衝立、その向こうにある寝台には人の気配。
 衣擦れの音が、その人物が起き上がったことを知らせていた。
 果たして誰か、敵か味方か。 何にせよ、気取られてしまった以上はどうにかして切り抜けるほかない。 輝夜の頭が回転をはじめる――
「誰だ?」
 が、その心配は無用のものとなったようだった。
「そのお声は……!」
「そう云うお前は、あの輝夜だな?」
 いぶかしむ声は闊達な笑声に変わり、その人物は衝立の陰から姿を現した。
「やはり、虎乃助様でしたか」
輝夜にそう呼ばれ苦笑する青年の歳は、紫苑より少し上といったところだろうか。
「幼名で呼ばれるのも久しぶりだ。 元服の儀には呼ばれていなかったか?」
「父について奥羽に行っておりました」
 輝夜の言葉に頷くと、今は実朝という名だ、と彼は言った。
 一時期、輝夜の父親に師事していた実朝は、剣の名手として宮廷の内外に名を知られ、さらに皇国の最高学府である皇都国立大学を卒業し、将来を嘱望されていた。
 しかし、身分の低い側室の子であるため二条家の継承権争奪には加わることはできなかった――という噂を最後に、彼の話を聞かなくなったのが輝夜の記憶だと数ヶ月前だ。
 蘇芳や紫苑ならば、丁度実篤が家督を継ぎ、直後に前当主が急逝した時期と重なる事に気がついただろう。
そして、彼がここに居る理由にも気がついたかもしれなかった。
「ところで、虎……いや、実朝様は――」
 輝夜が問いを発しかけたところで、扉を激しく叩く音。
「開けるのだ、実朝!」
 続いて聞こえてきたのは実篤の声だった。 ほかに複数の足音がするあたり、兵士を何人か連れているようだ。
 輝夜に衝立のうしろへと隠れるよう促しながら、実朝は一歩前に進み出た。
「斯様な夜更けに何事です、兄上」
「賊がこの塔に入り込んだという報告があったのだ。 故に下階から一部屋ずつ検分をしておる」
「見間違いではないのですか」
「それを確かめるためにも、だ。 開けぬというなら無理にでも開けさせてもらうぞ」
 実朝は答えない。
 かくして扉は強引に押し開かれ、実朝は四人の兵士に部屋への侵入を許すことになった。
 頬の肉皮を僅かに持ち上げる不快な笑い方で室内を見回す実篤の前に、ひとりの兵の手で輝夜が引き出されるまでそう時間はかからなかった。
「随分と大きな鼠がいたものだ」
 にやりと笑みの度合いを深め、実篤は一歩前に進み出た。 手に持った牛革の鞭を弄びながら、後ろ手を押さえつけられた輝夜を嘲るように言葉を発する。
 輝夜は藤色の瞳を爛々と輝かせ、二条家当主を睨みつけるだけ。
「名を聞いておこうか、少年?」
 実篤の言葉に、ぎり、と歯を軋らせる輝夜。 その態度が気に入らなかったのか、実篤は顔を不快げに歪め、鞭を振り上げ床をしたたかに打ちつける。
 嗜虐性を剥き出しにしたそのありさまに、実朝もまた不快げに眉をしかめた。 しかし武装した兵士三人に囲まれて武器も無く、行動を起こしようもない。
「さあ、喋って貰おうか。 お前は何者だ?」
 それでも輝夜は口を割らず、問いには烈火のような視線をもって答えとした。
「おのれ生意気な、思い知らせてくれる!」
 実篤の鞭が奔り、輝夜の背を激しく叩いた。 赤熱するような痛みに歯を食いしばり、眉をしかめる輝夜の姿を見ていささかの満足を覚えたのか、実篤は彼女にさらに歩み寄る。
 ――それこそが、輝夜が待ち望んでいた瞬間だった。
 形勢逆転は、一瞬。
 手甲に掘られた術式が光り輝いたかと思うと、輝夜は自らを拘束している兵士を跳ね飛ばし、爆発するような音と共に地を蹴って実篤の懐に飛び込んだ。
 振り抜かれた掌打は鳩尾を僅かに外したものの、実篤の身体に強烈な衝撃を与え、彼はうっと呻いて後退する。
「き、斬れ! 斬ってしまえ!」
 打たれた箇所を押さえながら、狼狽と怒りとが半々になったかのような声で叫ぶ実篤。 その声に応じて、実朝を囲んでいた三人の兵士は一斉に抜刀し、輝夜めがけて殺到した。
 今度は輝夜にも躊躇する気はなかったし、その暇もなかった。 兵士達が動き出すと同時に跳躍した彼女は、その最中に鯉口を切り、一息に刃を抜き放つ。
 銀の煌きには、血飛沫が続いた。 刀を掴んだままの右手が、赤い飛沫を撒き散らしながら床にぼとりと落ちる。 さらに輝夜は着地した片足を軸にくるりと向きを変え、もう一人に突きを見舞う。
標的になった兵士は慌てて身をかわそうとしたが、輝夜が早かった。 刃は頚動脈に達し、血が噴水の如くあふれ出す。
 あっという間に二人を失い、残った三人目は半狂乱になってめちゃくちゃに刀を振り回したが、「奔れッ!」という鋭い一声と共に実朝が放った風圧弾が鳩尾に直撃し、くずおれる。 
 最初の一撃から立ち直った四人目も輝夜に刀を折られ、もはや術無し、と両手を上げた。
「兄上。 私とて何も思うところなしに、ここで過ごしていたわけではないのです」
 それは、謀反の宣言。 輝夜の行動が実朝の裡に眠っていたものを呼び覚ましたのか、彼がもとより機を伺っていたのかは定かではないが、そんな事は輝夜には関係なかった。
「実朝様、助太刀ありがとうございます」
 感謝の言葉を述べながら、白い小袖を紅く染めた輝夜は、実篤に刀の切っ先を突きつける。
「さあ、紫苑様の居場所、教えて貰うぞ……!」
 ぜえぜえと肩で息をし、顔面は蒼白だったが、それが彼女の声に凄絶さを加えているように実朝には思えた。
 小心な実篤には、輝夜の脅しはよく利くだろうと思われたところだが、事態は実朝の想像通りには運ばなかった。
「ぐぬう……!」
 輝夜を睨みつけてあえいだ実篤は、意外な程の素早さで身を翻して、扉の外へと駆け去ってゆく。
「待て!」
 それで待つ者は歴史上に片手指ほども存在しないであろう、古典的な制止の文句を叫ぶ輝夜。
 一瞬振り向いて実朝に申し訳なさそうな視線を送ると、彼はそれに苦笑で返した。 行ってこい、という意思表示と輝夜は受け取り、放たれた矢のように部屋を飛び出してゆく。
 それを見届けて、実篤は樫の扉を閉じた。 兵士の死体を片付け、あとは彼はここで事態の収束を座して待つことにしたのだった。

 ――追い詰めた、と思った。 
 階段を下っていった輝夜は、その先で壁に張り付いている実篤の姿を見つけ、一旦収めていた刀の柄に手をかけ飛びかかろうとした。
 瞬間、響くけたたましい哄笑。
 突然のことに輝夜が面食らっていると、突然背後の壁がぐるりと回転し、実篤の姿はその向こう側へと消えてしまう。
「!?」
 輝夜は瞠目すると同時に、半ばあきれる思いだった――ここは忍者屋敷か何かか、と。
 結局のところ、実篤がしている事は旧来に存在したもののオマージュでしかないのだった。
 彼女が我に返って追いかければ、その先に広がっているのは石造りの小部屋。 奥にはさらに通路が続いていて、輝夜がそこに駆け寄ろうとした瞬間、轟音と共に鉄格子が落ち、行く手を塞いだ。
 そして聞こえてくるのは、実篤の耳障りな笑い声。
「かかりおったな、出でよ!」
 呼び声に応じてか、横の壁の一部が引き戸のようにずれて、そこから小山のような姿が現れた。
 明緑色の細長い胴、その上に乗っているのは触覚が生えた三角形の頭部。 節が分かれた胴の二節目からは強靭そうな二対の足と、鋭い刃をもった一対の鎌が生えている。
「さあ、勝った方しかここからは出られぬぞ。 私は高拠の見物とゆこう!」
 台詞といい、演出といい、すべてが芝居じみていた。 輝夜が上方をちらりと見れば、そこには小さな窓がある。 そこからこの部屋の様子を見下ろしているのだろう。
 背後の壁も動かず、退路はない。 確かに、部屋から出る為にはこの巨大蟷螂(カマキリ)を倒す他無いようだった。 しかし、実篤がその通りにしてくれるものか。
 ――汗が頬を伝うのを感じつつ、彼女は柄を握り締めた。





 人を相手にするよりは、幾分か気が楽だった。
 しかしそれは、敵が御し易いかという事に直結しているわけではない。 その点で言えば、最初に出会った忍者も、その次の兵士達も、この蟷螂に比べれば万倍は楽な相手に輝夜には思えた。
 正確無比な狙いに、巨体に似合わぬ素早い動き。 鎌本体に当たればもちろん、丸太のような腕に掠るだけで華奢な輝夜は木の葉のように吹き飛んでしまうだろう。
さらには。
「なッ!?」
 刃が、飛んだ。
 瞠目する輝夜だったが、驚いている時間はなかった。 まるで回転する鋸のように空を斬って飛来する刃を跳んでかわし、素早く懐にもぐりこむと、上方向けて気を溜めた渾身の突きを放つ。
 耳障りな悲鳴と飛び散る体液が、輝夜に命中を知らせた。 真上は首、無事では済まないはず――倒れこむであろう胴体を避ける為、彼女は急いで脇に飛び退く。
「やるなぁ、少年!」
「さっきは言いそびれたが、わたしは女だッ!」
 実篤の嘲弄混じりの賛辞に叫び返すと、相手は「それは失礼」と笑いを含んだ声で述べてから、またも哄笑を発した。
その中で、力を失って倒れる蟷螂。
「何が可笑しい、二条実篤! 約定を忘れたわけではないだろうな!」
「これで終わりだと誰が言ったね?」
 まさか、と輝夜が振り向けば、今倒したばかりの蟷螂の甲殻に細かなヒビが幾つも走っている。 紫苑にならば、その周囲に精密な術式が渦巻いている事も知覚できただろう。
「馬鹿な……!」
「知らぬも無理はないさ、これが本当の魔術だ――さあ、甦れ!」
 ひび割れからは光が溢れ出し、輝夜の視界を一瞬だが奪う。 それが失せた時には既に蟷螂は変貌を終え、名状しがたい怪物へと姿を変えていた。
 倍以上に太く、強靭になった腹。 気門にあたる部分には輝石のようなものが輝いている。
 胸からは二対の足と、二対のさらに大きな鎌が。 威嚇するように蟷螂が鎌を交叉させるたびに、金属がこすれる耳障りな音が響く。
 そして、逆三角形の頭には、白く大きな角が生えていた。
「ゆけ!」
 その声が合図か、二対の太い足が地響きを立てて動き出す。
さらに巨大になった鎌が目にも留まらぬ速さで振り抜かれれば、回転鋸のごとき一対の真空の刃が放たれ、輝夜を切り裂かんと迫る。
 先程は跳躍して回避できたが――今回は。
「大きい……!」
 到底、輝夜の跳躍力では飛び越えられそうにはなかった。 ならば大きく回って避けるか、隙間を縫うか。 思案している暇は与えられなかった。
 第二撃。 今度は縦に振り下ろされた鎌から、天井すれすれの高さはあるであろう巨大な二枚の刃が輝夜向けて迫る。
 意を決し、輝夜は迫り来る四枚の刃の間を走り抜けようと飛び込んだ。 回転によって生じる風圧は凄まじく、服の布地が悲鳴を上げる。
 歯を食いしばって風圧の暴威に耐え凌ぎ、蟷螂の懐に再び肉薄しようとする彼女に、さらに上方から二対の鎌が一斉に襲い掛かった。
 慌てて飛び退いたところに、岩をも切り裂く刃が落ちかかる。 数瞬遅れていれば、と思わず想像し輝夜は青ざめたが、蟷螂はいっとき輝夜を見失ったようだった。
 そして、その隙を見逃す程彼女は未熟ではない。
 手甲と脚甲の術式に魔力を込め、爆発するような音を立てて跳躍。 裂帛の気合と共に、一撃を放つ。
 響く高音、飛び散る装甲、そして吹き出る体液。 振り抜かれた輝夜の刃は、鎌の一本を関節部から斬り落とした。
 軋るような咆哮が響く。 身をのけぞらせ、苦悶しているかのような蟷螂だったが――すぐさま、青色の光が傷口を包み込む。 そしてそこから、ずるりと音を立てて現れるものがあった。
 新たな鎌。 滴る粘液と立ち上る湯気がグロテスクな様相を呈しているが、刃の煌きは先程に劣らない。
 血払いをするようにそれを一振りして粘液を払い落とすと、蟷螂はさらなる殺意もあらわに輝夜へと襲い掛かった。
 先程までの牽制するような動きとは明らかに違った。 鎌を振り回し、刃を飛ばしながら突進してくる蟷螂を、輝夜は間一髪の線でかわすのが精一杯。
 とても攻勢に出る余裕はない。 まずい、と輝夜が思い始めた、その時だった。
「退け!」
 後方の回転扉が開き、飛び込んできた紅い影。 彼は大剣を引き摺るようにして駆け、一息に蟷螂との距離を詰めると、振り下ろされる鎌に対して真っ向から剣を振り上げた。
 その時、輝夜には見えていた――大剣の鍔に嵌め込まれた晶石結晶が、目映い光を発して輝きだすのが。
 ぶつかり合う四本の鎌と、金属の刀身。 甲高い音に続いて、耳障りな擦過音があたりを圧して響き渡る。
 しかし、そのせめぎ合いも長くは続かなかった。 晶石結晶が一際輝きを増し、そして彼は口を開く。
「――失せろ」
 光が、はじけた。 音と衝撃が石造りの部屋を揺るがし、遅れて巻き起こった爆炎が蟷螂を包み込む。
「アレス殿!?」
 振り向いた姿に、輝夜は思わず声をあげた。
 御神楽邸の食客となっている彼ら兄妹だが、今回の件に関しては無関係なはずだった。 なにも、こんな旅の途中で立寄った場所の揉め事に、進んで首を突っ込むこともない。
 しかし彼は、愛用の大剣を携えて此処にいる。 しかも、輝夜を助けて、だ。
「話は後だ」
 煙の向こうには、まだ蠢く気配がある。
 そこから閃いた銀光をアレスは容易く受け流してのけると、晴れつつある煙の中に飛び込んだ。
「悪いが、これで」
 軽やかな音と共に跳躍し、大上段に赤熱した大剣を構え――
「終い、だッ!」
 一息に、振り下ろした。
 切っ先が蟷螂の頭頂に触れた瞬間弾けた火花の光が、輝夜の視界を染める。
 抵抗は数秒で潰え、蟷螂の身体は頭頂から一直線に切り裂かれ、響くのは断末魔。 そして刀身が蟷螂の身体の中央まで達したところで、アレスは蓄えた力を解き放つ。
 閃光と疾風が解き放たれ、紅蓮の炎が後に続く。 蟷螂は千々にその身を引き裂かれ、弾けて果てた。
「……何故、あなたがここに?」
 刀を納めながら、輝夜が口を開いた。
「蘇芳に頼まれた。 何だかんだで心配だったんだろう、妹が」
 肩を竦めるアレス。 そして彼は上方の小窓をしばらく眺めると、皮肉げな口調で呟いた。
「……ドサクサに紛れて、逃げたみたいだがな。 親玉は」





 ――二条実篤は、芸術家的な気質を確かに持っていた。 しかし、気質の存在と才能の存在は互いに保証し合うものではまったくない。
 有体に言えば、実篤にはその方面における才能というものが欠如していた。
 しかし彼はそれを認める事ができず、「芸術」と呼ばれるものには片っ端から手をつけた。
 歌や俳句を詠み、詩を書き、絵は西洋絵画の油彩に水彩、さらに水墨画などにも手を出した。 そして庭園や建物を建築し、茶道に陶芸も学んだ。
 もちろん、どれもものにならなかった。
 それでも彼には二条家の嗣子という身分と、その財産があった。 それらの使い方を誤らず、芸術を保護奨励でもすれば、或いは紫苑や蘇芳の彼に対する評価もまた違ったものになっていたかもしれない。
 だが、彼はそうはしなかった。 彼は自らの非才を認めざるを得なくなるにつれて、才能ある者を激しく嫉み、憎むようにすらなったのだった。

「……気色悪いったらありゃしない」
 吐き捨てるように、紫苑は呟いた。
 落とし穴の下に敷き詰められたクッションの下に、さらに蓋のようになっている箇所があり、そこを開けると石造りの階段が姿を現したのだ。
 その先に広がっていたのは、玄武岩と思しき岩石で作られた地下通路だった。
 じっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。 それだけでもかなり不快だが、それ以上に紫苑の気をいらつかせるのは、壁にびっしりと彫りつけられた不快な文字だ。
「なんとなく、わかる……?」
 父親からこんな文字を教わった覚えは、紫苑にはなかったのだが。
「応神の文字ではないし」
 指でなぞってみると、湿気を含んだ泥がべたりとこびりついた。
眉をしかめ、泥を払う。 白い着物の裾は泥だらけで、目も当てられない有様になっていた。
「ったく、それもこれもあの阿呆のせいだわ」
 見つけたらどうしてくれようか、と渋面でブツブツ呟きつつ、彼女は爪先に点した火を頼りに暗闇を進んでゆく。

 一方で、輝夜とアレスも昏く冷たい地下道を手探りで進んでいた。
 灯はといえば、外套の布を引き裂いたものを、先程輝夜が斬り飛ばした蟷螂の腕に巻きつけた即席の松明。
「すまない」
「ん?」
 唐突に輝夜が一言を発し、アレスは怪訝そうに問い返した。
「さっきは助けて頂いたにも関わらず、礼の一つも申し上げずに――」
「気にするな。 仕事だ」
 恐縮げな輝夜に対して、アレスは素っ気無い。
 それにしても、この迷路じみた通路は一体どこに続いているというのだろうか。 それが二人の、声に出さぬまでも、最大の関心事の一つだった。
 通路は全体として曲線をなしているが、曲がり角も多い。 どうにも全体として円形、あるいは渦状の形を成しているようだ、とアレスは考えていた。
 そして、輝夜はといえば、迷路の行方もそうだが、紫苑の行方が気になって仕方ない。
「ここは開けてるな」
 しばらくして、二人はやや広いドーム状の部屋にたどり着いた。 彼らが進んできた通路のほかにも、いくつかの通路がこの部屋に集まってきているようだった。
「紫苑様!」
 心配の程度が臨界を越えた輝夜が、とうとう必死さがにじむ声で叫ぶ。
「おい、敵に気付かれたら――」
 主の名を呼ぶ輝夜をたしなめようとするアレスだったが、そこで気がついた。
 ――かすかながら、声が返ってくるのだ。
「聞こえたか?」
 こくりと頷く輝夜。 確信し、アレスも声を張り上げる。
「紫苑! いるか!?」
 しかし、その呼び方がまずかった。 輝夜にとっては。
「な、何を無礼な!」
「……なにがだ」
「殿下とお呼びしろ、せめて様をつけろ!」
「些事だ」
「些末じゃない!」
 がるるる、と唸り声が聞こえてきそうな程の剣幕で怒鳴る輝夜。
「生憎、礼儀とかいうもんとは無縁のところで生きてきたんでな」
「くっ……!」
「まあそう怒るな」
 対するアレスは平静そのものだ。
「冷静さを失うと勝てる相手にも勝てなくなる」
「それとこれとは別の話だ!」
「別なものか、紫苑じゃなくて敵が来たらどうするんだお前」
「……なにを漫談してるの、あなたたち」
 そこに現れた当の本人。 コレはコレで相性がいいのか、とその時紫苑は思ったが、二人から文句を言われそうなので黙っておき、代わりに呆れ気味の一言を発する。
「し、紫苑様!」
 ぱっと表情が明るくなる輝夜。 紫苑はその頭を撫ぜてやった。
嬉しそうに目を細め、されるがままの彼女に、アレスは尻尾を振る忠犬の姿を見た。
「よう、無事だったか」
「お生憎様。 あんな小物に私がどうにかされると思って?」
 ふ、と口元を歪めるアレスに、紫苑は手の代わりに袖を振って答える。
 すると彼は、その笑みを意地の悪いものに変えた。
「その小物にまんまと捕まったみたいだが?」
「う、うるさいわね……宴会場に落とし穴なんて予想できなかったのよ」
 微妙に頬を紅潮させて、紫苑。
「そうだな、予想できん」
 アレスも頷いて、
「それが奴の怖いところだ。 お前も蘇芳も、奴が打算的、理性的に振舞う事を考えて行動した。 その結果がこれだろう?」
 と、相変わらずの口調で指摘してのける。
「まったくその通りね……ああ腹立つ」
 苦々しい顔の紫苑。 それでもいたずらに強がったりせず、素直に認めるところが彼女らしいといえばらしい。
「要するに奴はまともじゃない。 だから俺達『まともなの』には、奴が何をするかまるでわからん」
 ふう、とアレスは吐息する。
「こんな迷路だって、マトモな神経の持ち主なら造ろうなんて、ね」
 紫苑も大げさに肩をすくめ、やれやれとかぶりを振った。
「ともかく」
 湿気を含んだ重い袖をばさりと鳴らし、紫苑は足を広げ天井を仰ぎ見るように姿勢を直した。
「あの馬鹿をどうにかしてやらないと、気が収まらないわ……!?」
 語尾がにわかに上擦った。 直後に、地下通路の静寂を圧して響き渡る二人分の悲鳴。 思わず耳を塞いだアレスは、耳をつんざくような声が収まると、
「今女みたいな悲鳴を上げたのはお前らか」
 と、相当に失礼な疑問を発した。 しかし、二人には突っ込む余裕もない。
「う、うるさいわね! そそそそれよりそれ、なんとかしなさい!」
「わ、え、わたしも駄目なんですっ!」
 紫苑が擦れ気味の声で促しても、輝夜は輝夜で刀の柄に手をかけはするものの、その場から一歩も動けない。 よく見れば二人そろって手足が震えている。
「どうしたんだ……」
 げんなりといった面持ちで問うアレスに対して、二人は震える指先を彼の背後の壁面に向けた。
 振り向いてみれば、文字が彫り込まれた玄武岩の壁に一点、茶褐色の部分がある。
 それはよく見れば六本の足をもち、長い触角をぴくぴくと動かし、おおよそ楕円形に近い形で、てらてらとした光沢をもった昆虫だった。
「なんだ、こいつか」
「なんだ、って、なんだじゃないわよ!」
 半ば裏返った声で、抗弁になっていない抗弁をする紫苑。
 そのさまを見てアレスはにやりと笑みを浮かべ、かさかさと蠢くソレを右手で掴むと、二人の眼前にぐいと突き出す。
「ひっ!?」
 青ざめた顔で後ずさる輝夜。 一方で紫苑は、その場で氷像と化し――
「い……」
 そして、自分の中で何かが切れる音を、確かに聴いた。
「嫌ぁぁぁッ!!」

「お前らにも可愛いところがあるんだな」
 微妙に茶色味が増したアレスが、やっと発した一言がまずそれだった。
「だが爆発するほど可愛くしろとは俺は言ってないぞ」
「上手に焼けて結構なんじゃないかしら!?」
 アレスの有様は、こんがり、という形容が一番だろうか。 そんな彼のだいぶ先を、肩をいからせて往く紫苑の口調には、恥ずかしさと怒りがない交ぜになったものが感じられる。
 彼女のすぐ後ろには輝夜が従い、そしてやや離れてアレス。 このアンバランスな一列縦隊は、とりあえずこの迷路の中心と思われる方向に進んでいるはずであった。





 たどり着いたのは、仰々しい装飾が施された樫の扉の前。
 両脇を悪魔を模ったとおぼしき一対の彫像が固め、幾つかのおどろおどろしい装飾が施された燭台があたりを照らしている。
「いかにもこの先に黒幕がいるって雰囲気だな」
「いっそ、ここまで雰囲気出せる事を褒めてやりたいくらいね」
 皮肉混じりに二人が評する。 感じられるのは地下独特の湿気と、納骨堂を思わせるすえた臭い。 この瘴気じみた空気は、確かに演出に一役買っていた。
「気配がします」
 と、輝夜。 その言葉に紫苑は頷いて、すっと両掌を扉に向けた。
 片足をずいと前に出し、きっと口を引き結んで視線をただ一点、扉の中央に定め、自らの内圧を高めてゆくかのように、ゆっくりと目を閉じる。
「おい……」
 アレスが何かを言いかけるよりも早く、術は成った。
 いつもの、指を鳴らす小気味いい音の代わりに響いたのは、すらりと伸びた足が石畳を叩く高らかな音。 それが発動の合図となって式は実行(RUN)され、扉に向けられた掌の前に、特大の火球が現れた。
「伏せてッ!」
声と共に、破壊力を具現した火炎弾が飛ぶ。 熱風と共に飛翔したそれは扉の中央に着弾。
瞬間、内包した力を解放――紅蓮の炎を撒き散らして球が爆ぜ、盛大な爆発音と破壊音を撒き散らした。
「……やりすぎだろう」
アレスがそう呟くのも無理はない。 煙が晴れてみれば、扉は跡形もなく吹き飛んでいる。
魔術はさらに周囲の石壁までも道連れにしたようで、あたりには焦げた木片に加えて、砕けた玄武岩が散らばっていた。
「二条実篤ッ!」
鋭い呼び声と共に、紫苑は靴音高らかに部屋の中に踏み込んだ。 しかし、呼ばれた方は動かない。
彼女に背を向けて、玄武岩の壁面に埋め込まれた、人一人分はあろうかという直径をもった鏡を見上げて、全身をわなわなと震わせている。
「何故! 何故なのです!」
 突如上がった声は、悲鳴とも懇願ともとれるものだった。
「麗紗様……!」
 そう、ここには居ない誰かの名前を、青年貴族が呼んだ直後――紫苑は、周囲の魔力が一瞬だけ、尋常でない領域に高まるのを感じて僅かに身震いした。
 そして異様な音が響いた。 アレスと輝夜は、疑念を表情に滲ませて実篤を見据えるのみ。 ただ一人、紫苑だけがその音を聴いたのだった。
 束ねられた糸が、一息に断ち切られたかのような音。 それがとても忌まわしい音だと、何故か紫苑にはわかる。
そして、直後。
 激しい狼狽と憤り、恐怖と絶望、怨嗟とを混ぜ合わせたような、奇怪な声で叫ぶ実篤。 今度は、全員にそれは聞こえた。
嫌悪感を露にする輝夜。 眉間に皺をよせ、何が起きているのか解りかねている様子のアレス。 その二人の間にあって、紫苑は目を見開いて立ち尽くしている。
 先程の、糸が断ち切られるような音がなんだったのか。 それが彼女にはわかったのだ。
「魂の緒が……絶たれた?」
 致死魔術。 それも即効性のものだ。 父から授けられた知識でだけ知っていた、禁呪中の禁呪のひとつ。
 長い絶叫が終わり、実篤は二三度痙攣すると、糸の切れた人形のようにくずおれる。
「……!」
 直後、風船が割れるような音と共に、その体が爆ぜた。 血も肉もない、ただ灰色の粉のようになって、実篤だったものが散じてゆく。
 空恐ろしい光景に、三人はただ絶句して眺めていることしかできなかった。

「……あれは!?」
 ややあって、一番に『それ』に気付いた輝夜が声をあげた。
「!?」
「え……!?」
 アレスも、『それ』を見て一瞬言葉を失う。
 瞠目する紫苑。 鏡に映りこんでいるのは、すらりとした肢体と白磁の肌を持った一糸も纏わぬ少女。
 腰まで届く、白に近い銀色をした繊細な髪。 淡雪のように白く美しい肌。
 鋭角的な顎の線の上には紅色の唇が存在し、すっと伸びた鼻梁のやや上方の左右には、冷たい光をたたえる、鳩血色の紅玉をはめ込んだかのような瞳が光っている。
「私……!?」
 その存在は、数年前の紫苑に瓜二つの姿形をしていたのだった。
『あの馬鹿は期待ハズレだったわ。 もっと派手な事をしてくれると思ってたのに。 でも、こうしてあなたに逢えたのは、あいつのおかげかしら?』
 鏡の中の存在の口が動く。 それと共に、脳裏に直接語りかけるような感覚をもって、紫苑の意識にその存在が発していると思われる言葉が流れ込んできた。
『ごきげんよう。 やっと逢えたわね、お母様』
「なに……どういうこと?」
 困惑も露に、紫苑。 声が聞こえているのは彼女だけらしく、アレスと輝夜は何が起きているのか理解しかねているような顔のまま、鏡を見上げている。
『わたしはあなたから生まれた。 だから、あなたはわたしのお母様』
 若干ゆっくりとした調子ながらも、脳裏に響く声は紛れも無く、彼女自身と同じもの。 そのことがますます、彼女の意識を混乱させてゆく。
「なに、それ。 わけがわからない……貴女が? 私の?」
 かすれた声。 やっとの思いで問い返せば、相手はにこりと微笑んで頷いた。
『そうよ? 親子っていうのは少し語弊のある言い方かもしれないけれど。 わたしとあなたの基幹構造スペクトラムは、たった一箇所、個体識別タグだけを除いて同一なのは事実』
「何を言って……」
『個体識別タグまで同じだったら、それは同一人物が二重に存在していると誤認識されてしまう。 多重存在は許されていないから、その場で修正力が働いて後に出来たほうが消えてしまうわ』
 もはや、紫苑には相手の言っている事が毛程も理解できなかった。 ノイズだらけの思考は更に混迷の度合いを深め、彼女を不安定にしてゆく。
 血の気は失せ、冷たい汗が全身から噴き出す。 口腔内はカラカラに乾き、彼女は空気を求める魚のようにあえいだ。
『わからないのも当然よね。 だって、あなたは何も知らないはずだもの』
 その言葉で、紫苑の胸の奥底に在るなにかが、ずきんと疼いた。
 思考がますます混濁してゆく。 舌が口腔に張り付く。 喉が痛い。 骨格が軋む。 体の中を廻っているものが酷く乱れているのが、はっきりと自覚できた。
「紫苑様……!」
 明らかに様子がおかしい紫苑を見兼ねて、輝夜が駆け寄った。 我に返り、僅かに微笑んだ彼女は「ありがと」と小さく呟き、両の足に力を再び込めて、なんとか姿勢をただす。
 それを後ろから見ているアレス。 彼には、ふたまわりも小さい輝夜よりも今の紫苑は華奢で、ともすれば少しの衝撃でも壊れてしまいそうに見えた。
 襲ってくる既視感。 前、俺はあの位置、輝夜が居た場所にいなかったか――そんな念を振り払い、油断無く前方を見据える。
『……そうね。 半身って言い方の方が、しっくり来るわね。 さしずめ一卵性の双子』
 その間、考えこむような仕草をしていた鏡の中の存在は、得心したようにうんうんと頷いた。
『そう、わたしはあなたの分かたれた半分。 だから、わたしたちは――』
 続けようとしたところで、突然鏡面に映った像が乱れた。 耳障りなノイズと共に、鏡面は白と黒のモザイクが入り乱れる場と化す。
 ややあって復帰した映像の中で、その存在は別れを惜しむように微笑んでいた。
『――時間だわ。 今日はここまで』
「待って!」
 我に返り、制止の言葉を発する紫苑。 駆け出そうとする足は、意志の力で無理矢理押し止めた。
『駄目。 残念だけど、塔の外に出るのは物凄く疲れるの。 それじゃ、また逢いましょ』
 楽しげな声と、皮肉っぽい笑み。 それを最後に鏡面はホワイトアウトし、直後、それはただの大きな鏡に戻った。
 ふうっ、と大きく吐息して、紫苑は張りつめていた糸が緩んだかのように、だらりと肩を落とす。
「何を言ってたんだ、奴は?」
 会話の終了を察し、アレスが声をかける。 紫苑は力なくかぶりを振った。 元々白い肌が、病的なまでに青褪めている。
 額には球のような汗が浮かび、瞳は潤んですらいた。 一体あの短い時間の間に、何があったのか。 アレスと輝夜には伺い知ることはできない。
「もう、何がなんだか分からなくて……ごめん、私も上手く説明できない」
「……なら、無理に話すな」
 肩に手を置いてのアレスの言葉に、血の気が失せた唇を噛みしめながら、紫苑はただ頷くのだった。





 こうして、二見の山荘での事件は終息した。 二条実篤の死と、その弟実朝による家督継承が、この状況に何をもたらしうるのか。
 そして紫苑にとって、その様な事はもはや些事に過ぎなかった。 あの不気味な迷宮の最奥部、鏡の中に居た自分とそっくりな少女の言が、耳に残って離れない。
 だが、その様な想いとは関係なく、彼女たちは、動乱の渦中へと足を踏み入れているのだった。
 このとき既に、既に今代の泰華宮である影幸は命を失っている。 そして後を継ぐ長子、道幸の妻は、九条家の娘だった。
 泰華宮家は御神楽家と同様に、摂政を務める事ができる家。 その事に思い至らない蘇芳ではない。
 馬を飛ばして光宮に向かう彼の頭上で、月が雲に隠れて消えた――。
 



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