「いま助ける」 遠くから風が運んできた声で、少年ははたと目を醒ました。 見上げれば木漏れ日が降り注ぐ春の森の情景が広がり、その中でこの長閑な情景にはおよそ似つかわしくない褐色の蝕腕が不気味にうごめいている。 四本あるそれらの先端は少年の四肢を固く捕えて離さない。 今まさに、自分は化け物の餌になりかけているのだ、と、少年はすぐ解した。 しかし、不思議と恐怖はない。 目覚める瞬間に聞こえた声が、奇妙な安心感を彼に与えているのだった。 誰の声かも、そのことが本当かもわからないというのに。
――音が、した。 下草を掻き分ける誰かの足音と、金属が擦れる耳障りな音と、そして、なにかが空を斬る音。 ――同時に、少年は見た。 草むらの中から飛び出してきた誰かが、跳躍の頂点で陽光に煌く刀を抜き放ち、大上段に構えたそれを一直線に振り下ろす姿を。 ぱき、と乾いた音を立て、少年を拘束していたものが砕けた。 「わっ!?」 受身を取り損ね、思い切り尻餅をついてしまう。 痛む腰をさすっていると、「大丈夫か」という言葉とともに、すっと手が差し伸べられた。 はっとして見上げれば、視線の先には、まだあどけなさを残す、美しい少女の顔がある。 少年よりも幾分か年上だろうか。 艶やかな黒髪を後頭部でまとめた、いわゆるポニー・テールに、端整な目鼻立ち。 見下ろす藤色の瞳の視線と自分のそれがかちあって、思わず少年は赤面した。 「立てるか」 「こ、こんなん平気だっ」 続いた問いに、思わず彼は少女の手を振り払って飛び起きてしまう。 一瞬、悪い事をしたかな、とも思ったが、当の少女はそれを気にした風もなく、「そうか、なら良かった」とだけ言って、旅人風の装束に包まれた身を翻した。 そこに聞こえた――かさり、という音。 少年は反射的に身をこわばらせたが、少女は恐れはしなかった。 代わりに利き手に持った白刃を油断無く構え、背後の少年に声をかける。 「動けるか」 「ちょっと……無理、っぽい」 足がすくんで動けない。 少年はよろよろと地面に膝をついた。 全てをこの見知らぬ少女に任せるしかない、情けない自分を歯痒く思いながら。 「なら、そこから動くな」 木々が、不気味にざわめく。 森全体がうごめいているような錯覚の中、少女の周辺の空間だけは凪ぐような静けさを保っている。 少女が、太刀を正眼に構えなおした。 ゆっくりと息を吸い、眼を閉じ、感覚を研ぎ澄まして、周囲を探る。 「破ッ!」 気合と共に、銀光が三度立て続けに奔った。 空を断つ音に続いて、木を砕く乾いた音が連続して響く。 さらに、後方から少年を狙っていた蝕腕を返す一刀で叩き斬り、彼女はふと表情を崩した。 「そういえば、まだ名乗っていなかったな……私は、っち!」 苦笑じみたその顔は、こんな時に何を悠長な、という念からのものだろうか。 名乗りかけたところで殺気に気が付いた彼女は舌打ちし、前方から襲い掛かってくる、刃と化した木の葉の群れを、大振りの生み出す剣圧で一息に薙ぎ払った。 「輝夜。 冴月輝夜だ」 少年の目の前の肩越しに投げかけられた声は、凛として鋭かった。 覗く頬には一筋の傷が走り、赤いものがつつと垂れ始めている。 「俺は……」 異性に名を問われて名乗る気恥ずかしさ、窮地にあって何もできない歯痒さで頭がいっぱいになりながらも、少年は声をひねり出そうとした、が―― 「下がれッ!」 警告の声に、彼は未だ力が残っている腕をバネにして、後方に飛び退いた。 それに輝夜が続き、直後、鞭のようにしなる枝が振り下ろされ、二人が半秒前まで居た場所を打ち据える。 「まだ奴の手は尽きないか……!」 吐き捨てるような声には、彼女の苛立ちと焦りがありありと伺える。 続けてもう一度振り下ろされた枝を、白刃が断ち斬り、さらに輝夜は追撃とばかりに、未だ姿を見せない妖樹の本体が居るであろう森の奥に向けて、剣気の刃を放つ。 「やはりな」 枝葉に阻まれ、徐々に勢いを失う刃を見て、呟く。 失敗を嘆くというより確認するような、それは落ち着いた声だった。 「まだ、速さが足りんな」 敵の攻撃はことごとく防ぎ、しかし敵に決定打は与えられない状況。 呟きの意味は少年には理解できなかったが、もっと深刻な、彼女に疲労が蓄積してきているということは十二分にわかる。 「だ、大丈夫なのかよ」 「正直に言うと、このままでは厳しい」 返ってきた答えは予想通りのもので、少年が感じたのは、落胆というより納得だった。 「逃れるには、奴の手の届かないところまで一気に走るしかない」 「でも、それじゃあ」 「案じるな。 成算はある……奴の本体を一気に倒してしまえる方法の、だ。 だから今は、とりあえず立って走れ!」 言って、いつのまにか少年の後ろに回っていた輝夜は少年の背中を軽く蹴りつけた。 「わわっ」と声を上げて転がるように走り出す少年の後を、彼女は攻撃の来る方向に正対したまま、後ろに飛び退きながら追う。 「後は……」 呟いて、彼女は一瞬だけ、森の入り口の方向に視線を向けた。
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「やっぱり、輝夜一人じゃ手に負えないか……」 苦笑気味の声。 泉の水を弄んでいた白い手が引き抜かれ、そのまま髪を掻き揚げる。 「そうね、後は任されてあげようじゃあないの」 不敵に微笑んで、彼女は腰掛けていた泉際の石から優美な動作で立ち上がった。 その視線の先には、此方向けて必死に走り続ける少年の姿――。
「後少し、あと少し、あとすこし、あとす、すこし……!!」 徐々に言葉の体をなさなくなってくる声。 うわごとのように呟きながら、少年はひたすら光の見える方に向かって走り続ける。 「……!」 森を、抜けた。 一気に視界が開けたそこは、清らかな水がこんこんと湧き出す泉、古びた社、煤けた鳥居――最初に少年が居た場所だ。 「戻って、きた……」 しかし、ここすらも安全ではない。 呼吸を整えてまた走り出そうとして、ふと彼は気が付いた。 泉のほとりに佇む、長身の女性の存在に。 「ぁ」 思わず、ぽかんと口を開けて固まってしまう。 少年の眼底に刻み付けられた像、女性の容姿は、そうさせるまでに印象的だった。 その女性が、少年の方を向く。 腰まで届く、白に近い銀色をした繊細な髪。 淡雪のように白く美しい肌。 鋭角的な顎の線の上には紅色の唇が半月型の笑みの形で存在し、すっと伸びた鼻梁のやや上方の左右には、煌びやかな、鳩血色の紅玉をはめ込んだかのような瞳が光っている。 白と赤の道士服の、大きく広がった袖をばさりと打ち鳴らして、女性は一歩を踏み出し、そして口を開いた。 「輝夜ッ!」 「紫苑様ぁッ!」 鋭く飛んだ呼び声に、答えるもう一つの声。 「後はお任せ致しますッ!」 ざっ、と木立の中から飛び出してきたのは輝夜。 その背を追うように、刃と化した葉が飛んでくる。 「ふん」 女性は嘲るように鼻で笑うと、輝夜が自分の傍らに音も無く着地するのを見届けてから、右腕を高く掲げ、そして指を一つ、ぱちん、と鳴らした。 「……!」 少年は瞠目した。 ただそれだけの動作で、女性の眼前に赤々と燃える炎が渦巻き、飛来する一群の葉を包み込んだのだ。
――魔術。 意思の力をもって世界に干渉し、思うがままに現象を引き起こす、この世界の根幹を成す技術。 その、最も高度で、かつ攻撃的な発動形態のひとつを、少年は今まさに目にしたのだ。 「すげえ……」 呆然とする少年を他所に、紫苑と呼ばれた女性は、その指先に小さな炎を纏わせて、ゆっくりと下ろしてゆく。 「まだ安心するのは早いわ、そこの君。 本体が残ってる」 視線を森の奥に固定したまま、一言。 「君を襲ったのは、樹妖よ。 聞いた事くらいあるんじゃない? 夜な夜な動いて獲物の生気を吸う樹の物の怪の話」 「で、でも、ここは」 この泉の神様を祀った―― 「神域だ、って? そうね、でも魔術的な裏付けが一切無い。 そんな、人がただ引いただけの境界線、先方にしてみれば知ったことじゃないのよ」 素っ気無く言う紫苑は、少年の頭を「馬鹿ね」と言わんばかりにぽん、とはたき、それから豊かな胸の下で腕を組み、傲然と森の奥から迫り来る『それ』を見据えた。 地面が揺れ動き、何か大きなものが動く気配が伝わってくる――森が今までになく大きな音を立てて鳴動した。 「来るわ」 がさがさという音に加えての地響きとともに、木々を掻き分け現れたのは、血のように紅い蕾をそこかしこに膨らませた―― 「桜?」 裸の枝に、もう数週間もすれば咲き始めるであろう蕾をつけた、桜の老木だった。 根を足のごとく動かして歩いてきたのか、背後の地面にはそこかしこに穴があいている。 「桜の下には死体が埋まっている。 その血肉を糧として、桜花は紅く美しく色付く……つまらない怪談話ね」 敵を前にして、彼女の態度は余裕に満ちている。 妖桜は目の前の獲物を捕えようとその枝を振り上げたが、それでも、紫苑は傲然とそこに立っていて―― 「消えなさい」 ――ぱちん、と、指が鳴った。 「!」 「下を向いて目を瞑れッ!」 輝夜の鋭い声と時を同じくして、この泉の周囲の空間全体に等しく、何かが破けるような音が響き渡った。 空間が引き裂かれる音。 強引に作られた裂け目に紫苑の意思が魔力という媒体を通して介入し、その場所の情報を書き換えてゆく。 それは、地面をちろちろと舐めるように這う、小さな炎となって現れた。 妖樹は周囲の空気が自分への敵意と殺意に塗り潰されたのを感じ取り、根を蠢かせてこの場から逃れようと試みたが、しかしその時、既に結界は完成していた。 地を這う炎が描き出したのは、血の色の線が幾重にも重なって複雑な図形を成した魔法陣。 術は成った。 魔法陣の結界は、妖樹を捕えて離す事はない。 「そうね、せめて……」 魔法陣が紅の輝きを発し始め、高まってゆく熱は暴風を生み出し、下草や枯れ枝を巻き上げる。 その中で紫苑は利き手の左を天に向けて掲げ、口の端に不敵な笑みを浮かべて言い放った。 「光の華にしてあげるわッ!」 そして、世界が変容する。 発せられた言霊は式を揺り動かし、世界を侵し塗り潰す。 赤々と輝く魔法陣は黄を経て白へとその色彩を変え、臨界にまで高まった魔力はただ一点を指向して、今まさに解き放たれた。 極限まで高められた圧力が空気を一時に押し退ける爆音と共に迸ったそれは、炎と形容するには凄まじ過ぎた。 仮にこの場に眼を開けてまざまざとこの光景を見つめる者があったとすれば、この瞬間、その者は一生の間光を失う事になったであろう。 そう、それは光り輝く白い闇、とでも呼ぶべきもの。 光には、熱が続く。 魔法陣の裡という限定空間にあって、天を目掛けて昇り昇る焔の龍。 始原の炎がこの場に現出したかのような灼熱が、哀れな妖樹を瞬く間に包み込み焼き尽くし、そして彼は断末魔はおろか身じろぎ一つする間も与えられず、その存在を終えることになった。 「ふふ……あっはははははは!」 辺りには、ただ、魔術師の笑い声だけが響いている。 森に終末の光が満ちてゆく中で、その純白の肌と白銀の髪、そして紅玉の瞳はそれにすら勝って輝き、彼女という存在を圧倒的な威力をもって周囲へと刻み付けていた。 見るものに畏怖を抱かせずには居られぬ、自然という名工の手になる硝子細工が如き外見の下に、灼熱の獄炎渦巻く姫君。 何者よりも美しく。 何者よりも気高く。 何者よりも儚げで。 そして、何者よりも苛烈。 そう、彼女こそが、応神皇国が月読宮家の長女、従五位『魔導師』御神楽紫苑だった。
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「本当に、外見だけならば解るのですが――」 再び、都の東北、御神楽邸。 私室にて蘇芳は舶来のランプの光の下、皇国の政治に多大な貢献をしているさる大貴族から送られてきた一通の書状への返事を書き綴りながら、苦笑を禁じえないでいる。 「真物を見たら、果たしてどう思うやら?」 蘇芳にしてみても、この書状の内容は、「何時かきっと来るだろう」と覚悟しつつも、「在り得ない」と否定する自分の方が比重が大きかった、そんなものだった。 何行にも渡って美辞麗句が書き連ねられた書状の内容をごく簡潔に要約すれば、こうだ―― 『殿下の妹姫を、ぜひともわが妻として迎えたい。 ついては、一週間後に当家の山荘にて夕食会を催すので、是非とも姫君御本人にご足労いただき、まずは私めに会っていただきたい』 勿論不安はある。 相手の貴族の家は、現在巻き起こっている皇位継承をめぐる争いに深く関わる一族だ。 その家と御神楽家が関係をもつということは、御神楽家がその陣営につくことを正式に表明することに他ならない。 さらにその夕食会とやらで相手がどのような態度に出てくるか、それに対する妹の反応、「相手が」無事で居られるかどうか、心配事は山積している。 ――妹自身の安全は心配のしようがなかった。 彼女が窮地に陥る事などは、蘇芳の想像の埒外にある。 しかし、蘇芳のなかには、これは好機だと叫び上げる自分、面白くなってきたと喜びを隠せない自分が確かに存在していた。 この申し出に端を発し、皇家を取り巻く政治情勢は大きく動く事に間違いはない。 その中で自分が如何に立ち回り、両派に飲み込まれる事なく、御神楽家としての地歩を固め、事と次第によっては―― 「……殴られるのは覚悟しないといけませんかね」 家人のなかに数人、あの繊手に頬を張られたいやら抓られたいやら、あの白いお御足に踏まれたいやら蹴られたいやらと日がな口にしている変わった趣味を持つ人間が居る事を蘇芳は知っていた。 彼ら彼女らに、今の自分の立場を代わって貰いたい。 そんなことすら思いながら、蘇芳はこの申し出に対して、次のような内容を、勿論あらん限りの語彙を駆使して数枚の用紙を費やすほどに引き伸ばし、返書としてしたためたのだった。
『了承』
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