やがて雨も上がり辺りが闇に包まれ始めた頃、ユークリッドはようやく自らの家へと歩き出した。 先程キャロルと名乗る女性から預かった傘は晴れていることに気付かぬゆえか、さしたままである。
「………今日も……会えなかったね…ヒギンズ……」
ユークリッドは「雨の日」には必ず一日中外で過ごすという、傍から見れば奇行ともとれる習慣があった。 パイオニア2に雨が降らず、かつハンターズとしての仕事がオフの日は、わざわざラグオルまで降り立ち雨に打たれるのを待ち焦がれる。
それはユークリッドにとっての育ての親だった女性―――名はヒギンズという―――が、本星に居た頃スラムでのたれ死にしそうな彼女に救いの手を差し伸べたのが雨の日だったことに由来する。 また、ハンターとして師でもあったその人物は、ユークリッドが危機に陥った折に必ず助けてくれた。 そしてその時は、彼女が記憶する限り例外なく雨が降っていた。 ところがヒギンズはパイオニア計画に関与していたらしく、パイオニア1が本星より旅立つ数日前に、ただ一言の別れの言葉を書置きに残して、ユークリッドの元から姿を消したのだった。 その日は―――どしゃぶりだった。
パイオニア1の生存者の有無など関係ない。 雨の日にああしていればまた会えると、ユークリッドは信じて疑わない。 ユークリッドと親しく、また彼女の奇行を知る者達は皆、ほんの少し確率や常識から考察すれば導き出されるであろう最悪の結論を、どうしても「本当の意味」で教えられないでいる。 仮に言葉で伝えたところで、彼女が理解しない限りどうにもならない。
ユークリッドにとっては、自らが期待している結果こそが唯一の「真実」なのだから。
日頃ならば雨の日の帰路は深い哀しみをたたえた顔をしているのだが、今日は幾分和らいでいるのか、傘を弄びながらテンポを細かく変調しつつ歩みを進めている。
「でも、あの人ちょっとだけ…ヒギンズに似てた……。また…会いたいな」
気のせいかもしれないが、ユークリッドはキャロルを見た瞬間から、自身の待ち人とどこか近しい雰囲気を感じていた。 声をかけられて期待が表情にあらわれたのはそのせいだろうか。
すっかり夜のとばりがおりた居住区をユークリッドはもの想いもそこそこに、ゆっくりと歩き続けるのだった。
需要というものがあり続ける限り、生産には停滞も停止もあってはならない。 ゆえにパイオニア2内の工業区は昼夜を問わず、動き続けていた。 そしてここキャロライン私設研究所もまた、今この瞬間は機械工学の研究所として機能していた。
R・イングラムはメインエンジンこそ起動しているものの、四肢は胴体と切り離されていた。 その前でキャロルが様々な工具・機具を時折持ち替えては、イングラムの内部から部品を取り出したり、また入れたりもしている。
「…博士」 「なぁに?イングラム」 「先程カラ呼出音ガ鳴っておりマスガ」
キャロルが先日購入した、新しいアクチュエーターとセンサーをイングラムに組み込む作業に没頭している最中のことだった。 五分前からインターホンが鳴り続けているのは、キャロルにも聞こえていた。 だが、イングラムに関する作業は、彼女の中でなにものにも勝る優先順位を誇る。 従って、まさにその作業中に誰が来ようと、「彼」に言われるまではまったく気にならなかった。
「あら…いいのよ、放って置けば」 「博士がソウおっしゃナラ…」 「そんなことより…」
―――もう少しで終わるから。 そう言おうとした矢先、またインターホンが鳴った。 しかも今度は、例えば呼出ボタンを連打したかのように、続けざまにけたたましく鳴り響く。 これには、さしものキャロルもいきりたった。
「うるさいわねぇ…!出るわよ、出ればいいんでしょ!?」
荒々しく工具を置くと、直前の言葉とは対照的な口調でイングラムに声をかける。
「ごめんなさいね、イングラム…すぐに戻るから」 「ハイ。行っテらっしゃいマセ」
「彼」の返事を聞いて少し毒が抜けたようだったが、それでも自分達の―――キャロルにしてみれば蜜月ともいえるひと時の―――邪魔をした者に対する怒りは消えない。 キャロルは直接文句を言ってやるつもりで、端末から玄関の様子を覗うこともせずに母屋の玄関先までどすどす歩いていった。
「どなたかしら!?」
勢いよくドアを開ける。 これでくだらぬ訪問販売や宗教勧誘などであれば、火球の一撃でもくれてやるところだ。
「御機嫌麗しゅう……お初にお目にかかりますわ、キャロライン博士」
だが、にこやかに応答したのは前述のいずれにも属さぬであろう、長身の黒人女性だった。 歳は恐らく二十代半ば。 真紅のタイトなドレスに、袖幅の広い―――本星では東方寄りのセンスの―――ジャケットを羽織り、旧時代の学者がかぶるような帽子を頭部に頂いている。 しかしそれよりもキャロルの目を引いたのは、その女性が手にしている「見慣れた物」だ。 それは数日前、ほんの気紛れで少女に手渡した傘に他ならなかった。 確か名はユークリッドといったか。 キャロルは怒りも忘れ、代わりに公園での一軒を思い出しつつあった。
「先日は、うちの子が…ユークリッドがお世話になりまして、まことに有り難うございます…」
言うなり、女性は深々と頭を下げる。 確かに肌の色こそ同じだが、「うちの子」と呼ぶにはこの女とユークリッドの年齢差に無理がある。 最も、ユークリッドはニューマンであったため、そもそも実の親子ではないのだろうが。 (まあ、私には関係ないことね…それよりも)
「遠路はるばるご苦労なこと。わざわざこちらの居場所まで突き止めて傘を届けて貰えるとは思わなかったわ」 「ええ…あの子が言う通りの身なりで『キャロル』というお名前でしたから、お調べするのは簡単でしたわ…」
キャロルの皮肉を込めた「探り」に、女性は相変わらず笑顔をたたえたままですらすらと答えてゆく。 独立した研究者でありながらハンターズとしての活動を続けているキャロル=キャロラインの名は、それなりに有名である。 ある程度名の通った人物であれば、この業界では個人情報など幾らでも引き出せる。 つまり、それをやってのけたこの女性もまた、ハンターズないし裏社会に縁ある者に違いない。
キャロルは眼前の女に対しての警戒を、よりいっそう強固にした。
「申し遅れましたわ…。わたくし、メア=クライバーンと申します…」 「それはどうもご丁寧に。用が済んだのなら、傘を置いてお引取りなさい」 「ふふ…」 「可笑しかったかしら?」 「いいえ…ただ、あなたが…お噂通りの方だな、と…。失礼いたしました」
研究とR・イングラムのこと以外は無関心で、人との接点を極力作らない。 むしろ最低限度を除いて、絶とうとすらしている節がある。 キャロルについて調査すると、経歴と併せて必ず耳にする話である。 無論、メアの元にもその情報は届いているはずだ。 お茶会など誘ったとて、にべもなく断られると予想できぬはずもない。 キャロルが見る限り、メアはその場の勢いや思い付きだけで動くような浅はかな人物ではない。 では、その真意は?
「あなた…何が狙いなの?」
キャロルが機械仕掛けの両手のフレームを鳴らしながら、低く押し殺した声で訊ねた。 メアを無事に返すか否かは返答次第。
「あら…そんな恐ろしい目をなさらないでください…」 「大人しく質問に答えなさい」 「ふふふ…狙いと言うのかしら、分野は違うけれど同じ『研究者として色々とお話』してみたいと思いまして…」
メアは本当に楽しそうに笑いながら、その意図を遠回しに伝えた。 (ふん。なるほどね) キャロルはメアの「お礼」の意味がようやく理解できた。 つまりメアは、自分の研究成果やその詳しい内容を無条件でキャロルに披露し、彼女の研究に役立ちそうなものは譲渡するというのだ。 余程に酔狂な者かお人好しでない限り、多くの研究者は己の発見や成果を公の場に発表するまで、他者―――特に同業者には絶対に見せぬものである。 これを許したばかりに同内容の研究を先に発表され―――つまりは研究を横取りされ、それまでかけた時間や苦労、名声をも全て失ったという話など珍しくもない。 だが、例外もいる。 キャロルのような俗世に興味がなく、発表する気など初めから持ち合わせていない者。 そして、メアのように自らの研究を同業者やラボに売り渡したり、有事に備え手元に留め置く者。 判断基準に個人差はあるものの、どうやらメアにとって今度の一件は「有事」であるらしい。
「勿論、この場で御返事頂かなくとも構いませんのよ。気が向いたら…こちらの中を覗いてみて下さいませ」
そういうとメアは懐から、一枚の光ディスクを差し出した。
程無くして、来訪したときと同様に丁寧な挨拶を済ませ、メアは研究所を後にした。 再びイングラムのビルドアップを始めながら、キャロルは思索に耽っていた。
結局、光ディスクは傘と共に受け取った。 まだ行くと決めたわけではないが、あのメアと名乗る女に(厳密にはその研究に)興味が湧いたのは確かだ。 ディスクの内容如何によっては、酔狂なお茶会などに顔を出すのも悪くはない。 最も、イングラムも同席させるのは言うまでもないが。
「…博士」 「…なぁに?イングラム」 「先程カラ黙っていマスガ…なにカあったのデスカ?」
平時であれば常に「彼」との会話を楽しみながら作業を続けるのだが、どうもこのところ、自分らしくないことばかりしているような気がしてならない。 それを知ってか知らずか、ともかくイングラムの気遣うような言葉に、キャロルはばつが悪そうな顔を浮かべた。
「そうね…なんでもないわ。ごめんなさい」
結論を急ぐことはない。 もう少し判断材料を集めてから、ゆっくりと考えれば良いのだ。 (とりあえず…メア=クライバーンとかいったわね。手始めにあの女のことを調べてみようかしら)
〜続く…
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